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大人の寺子屋 朝鮮戦争③

『オトナの寺子屋 シリーズ』
クローズアップ 世界史
★ 朝鮮戦争 Vol 3

 短期間での南北統一に野心を燃やした金日成は、韓国政府の足元を崩そうともくろんだ、というところからの続きです。

 さて、ここが非常に"肝心"なところです。大事な歴史。

 まず最初に手をだしたのは、やはり北朝鮮でした。……コレ、重要!

 金正恩の祖父、金日成の指示で、韓国で抵抗運動を展開する共産主義者を支援するために、訓練を受けた2万人の武装ゲリラが38度線を越えたのです。

 まあそれでもこれは、ジャブみたいなものですが、ジャブといえども、立派なパンチに違いありません。

 その結果、韓国各地で、激しいゲリラ戦が勃発しました。

 ゲリラの手に落ちた街を韓国軍は、時には容赦ない攻撃で奪い返しました。

 ここに、同じ民族同士の悲惨な戦いが始まり、当たり前ですが、南も北の侵略に、必死で抵抗し続けたのです。

 そうして、共産ゲリラの活動が徐々に行き詰まってくると、当初、短期間で決着せないかんかったはずの金日成は、急に焦り始めました。

 そして、チマチマしたゲリラ戦ではなく、韓国への全面侵攻以外に勝利の道はないと考え、ソビエトと中国に泣きついて援軍を求めたのです。

 このあたりの、安易に他国を頼り、外国の軍隊を自分の国に呼び込み、喧嘩のケツを持たせるという考えを、日本語では、「ひとのふんどしで相撲をとる」といいます。

 しかしこれが、長い目で見れば祖国の崩壊につながりやすいという歴史を、金日成は学習していませんでした。

 たとえるなら、親戚に貸した金を回収するのに、ヤクザに依頼するのと似ています。

 とにかく、目先の権力欲で頭がいっぱいだったのは、確かです。

 けれども、金日成の願いは、この段階では、幸か不幸か、中ソ両国の合意を得られませんでした。

 それでも金日成は、韓国への侵攻を熱望し、ひたすら計画を練っていましたが、スターリンと毛沢東には、先に解決すべき別の問題があり、そこに、金日成の読みとは異なる多大な温度差があったのでした。

 毛沢東は、一刻も早く、国民党が支配する台湾を責め、中国本土との統一をはかろうとしていました。
 これは今の中共とまったく同じ考えです。ホンマに、バカのひとつ覚えのように変わっていません。

 そのため、スターリンから供与される予定の武器が、中国ではなく、北朝鮮に横流しされることを最も心配していました。
 毛沢東は、実にセコイ考えだったのです。

 一方、どんなことがあっても、アメリカとの直接の対立だけは避けたいスターリンは、もしも北朝鮮の韓国侵攻がうまくいかなかった場合、かわりに、中国に援軍を送らせる作戦を胸に秘めていました。

 とにかくスターリンは、日本の敗戦時と同様、ものすごく立ち回り方が、狡いのです。精神の美しさが一切ありません。まあ、戦争ですから、ソンナモン。ハナから関係ないといえばないんですが……。

 そんな背景のもと、1949年12月、毛沢東がモスクワを訪れ、中ソの新たな同盟について話し合いが行われました。

 もちろん、朝鮮問題も議題に含まれていましたが、アメリカが本気で怒ることを恐れるスターリンと毛沢東は、共に北朝鮮の韓国侵攻への支援には消極的にならざるを得ませんでした。

 それでも金日成は、北朝鮮人民軍が韓国を一気に倒せばアメリカ軍が介入する隙は無くなると、強く主張し続けました。

 その粘りの甲斐があってか、1950年春、ついに金日成は、スターリンと毛沢東を動かすことに成功してしまいます。

 ワシントンの公式発表の内容を分析した結果、アメリカが韓国を防衛するために、わざわざ朝鮮半島に、軍を投入する事はないと、推測されたからです。

 1950年5月、毛沢東は、韓国への侵攻を主張する金日成に、ついに同意します。

 これを知ったスターリンは、自分の思惑通りにことが運び、ペロリと舌を出して喜びました。
 このあたりで、後の、米ソ代理戦争に至る道筋ができたと考えられます。
 毛沢東も、スターリンにうまく利用されたのでした。

 ちなみに、代理戦争とは、大国同士が直接交戦せず、大国の支援を受けた第三の小国同士が交戦する争いのことですが、代理というからには、支援をする大国が、自国の領土を戦場にしないというのが特徴です。

 つまり、国土の破壊は、双方から支援を受けた国、この場合、朝鮮半島にのみ限定されるということになります。

 さて、北朝鮮の侵攻を成功させるためには、アメリカの態度が変化するまでに、迅速に勝利を収める必要がありました。

 そのため、スターリンは、迅速に、大量の武器と物資を北朝鮮に送り込みました。

 代理戦争の片方が始動した形です。

 中国はスターリンの思惑に気づかぬまま、まずは人民解放軍に所属していた3万人をこえる朝鮮人兵士の帰国を許可し、金日成の人民軍に編入させました。

 こうして北朝鮮人民軍は13万人に増強されました。さらに、すでに訓練も受けて統制のとれた兵士たちは、自らの正義を信じて疑わなかったのです。

 一方、北朝鮮には、実はソビエトから招いた数百人の軍事顧問がいました。

 その軍事顧問によって叩きあげられた強力な戦闘集団が、北朝鮮人民軍でした。

 軍事侵攻の作戦を立てたのも、もちろんソビエトの軍事顧問団でした。

 先述のとおり、武器もそうです。

 攻撃の先頭に立ったのは、強力な85ミリ砲を備えた、ソビエト製、T34型戦車 250両でした。

 それでもソビエト軍は、決して前線には侵攻しませんでした。
 あくまで、戦っているのは北朝鮮軍の兵士と、中国からの応援部隊なのです。

 T34型戦車は、第二次世界大戦で、ドイツ軍を破った強力な戦車です。
 このほか自走砲を含む重火器1,600門は、当時としては一線級の、強烈な破壊力を持っていました。

 ソビエトの軍事顧問団はまた、北朝鮮に、空軍まで創設していました。

 もちろん、つけヤイバの小規模空軍ですが……。

 配備されていたのはプロペラ式のソビエト製"ヤク戦闘機"でしたが、地上戦を支援するにはこれでじゅうぶんだと考えられていました。

1950年の時点で、韓国軍は9万8千の兵力を維持していました。
 数だけを見ればかなりの規模ですが、実情は惨憺たるものでした。

 とにかく、この時の韓国軍は、世界中にこんなけ弱い軍隊があるんやろか? と思えるほど最悪の組織で、とにかく、韓国の兵隊は、戦場からすぐに逃げ出すというイメージを、アメリカ側はこの時の経験から、後世に至るまで、強烈に記憶することになります。

 でも、考えてみれば、同じ民族同士の殺し合いに、本気になれない気持ちも、わからんではないです。

 また、それだけではなく、弱さに追い打ちをかけるように、韓国軍内部に大勢の共産主義者が潜入していたことから、李承晩大統領が、厳しい取り締まりを断行し、開戦前までに、4千名を超える兵士が、反逆者や兵役不適格者として、銃殺や投獄、除隊処分になっていました。

 そういう事情で、アメリカの軍事顧問は、韓国軍が北朝鮮の本格的な侵略に、まともに太刀打ちできるとは、小指の先も思っていませんでした。

 その上さらに、韓国人の儒教的な民族性が、悪い方にはたらいていました。

 このような、民族の最大のピンチにおいてさえ、韓国軍の指揮官の多くは、実際の指揮能力ではなく、李承晩への忠誠さだけを目安に任命されていたのです。

 アメリカの軍事顧問は、この現状に頭をかかえます。

 そして、ついに1950年6月25日早朝、歴史が大きく動きました。

 38度線全域で、満を持して、ついに北朝鮮軍が攻撃を開始したのです。

 境界線での衝突は、今までも日常的に起きていたので、韓国軍の司令官たちは、当初これが北の総攻撃だとは思いませんでした。

 しかもそれが週末だったため、韓国軍の兵士の多くが、呑気に任地を離れていたのです。

 北朝鮮は、この攻撃に、9万人もの兵力を一気に投入しました。

 上空には北の空軍機、ソビエト製 ヤク戦闘機が悠々と旋回し、地上では、行く手をはばむもののない韓国の狭い道を、これまたソビエト製の T45戦車が、我が物顔で進撃していました。

 北の戦術は、戦車部隊が先に敵の陣地を責め、その隙に歩兵部隊が周りを包囲し、韓国軍を孤立させるというものでした。

 韓国侵攻にあたり北朝鮮は、なんと、歩兵 7個師団、機甲旅団、独立連隊、そして境界線警備隊まで導入していました。

 これに対し韓国が前線に配備していたのは、韓国軍8個師団のうち、わずか4個師団と、独立連隊のみ。

 その他の部隊は、南部の共産ゲリラの鎮圧にあたっていました。

 この点は、国内のデモの鎮圧に多大なエネルギーを使わざるをえない、今の中共にも似ています。

 攻撃が開始されるや、北朝鮮第一軍団は、孤立した位置にあるオンジン半島を一気に制圧し、さらに機甲旅団を中心に、首都ソウルを攻撃。一方第二軍団も戦車部隊を先頭に、中央部から、さらに韓国領土深くにまで侵攻しました。

 いよいよ、朝鮮戦争が始まったのです。

 韓国は、マジで絶体絶命のピンチに陥りました。   つづく。

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