冬は寒くなくてはならないのだった 大寒篇(2013年)

昔の「一月」を読み返す

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まつすぐに十一月の始まれり  鷹羽狩行

冬は寒く長く、確かに辛い季節ではあるが、11月にその覚悟を決めたからには、終わるまでやり通す意思も必要だ。寒いと言って投げていてもいられない。私のいつもの口癖で大好きな言葉で言えば「縄文時代から予測できた」ことに不平不満を言ってはいけないのだ。まっすぐに11月を始めるからには、強くて揺るぎない意思と決意と展望があったのだから。

私たちは怒りや不平を日常として生きている側面があって、それが励みになりプラスの思考ができて羽ばたけるのであろう。大寒を迎える1月20日は、連続的に寒がり屋さんを苦しめた寒さも少し揺るんでいた。今年は穏やかな朝だったと日記には書きとめている。

大寒を迎えることはそれは父の命日を控えてということであり、寒さの中で声も枯れて出なくなった1998年(平成10年)のあの葬儀のことを思い出す。なだらかで優しい山並みも大寒波の到来で白く雪化粧をしていた。嘗てこんな景色になった日があり、父が喜んでか珍しがってか、カメラを出してきて写真に撮っていたのを思い出す。それほどまでにこの山に雪が積もる景色は珍しかったのだが、父の葬儀の日は,峠を越えてくる人が難儀をするほどの雪となった。

21日が母の誕生日なので墓参りをかねて家を訪ねた。誕生日の贈り物などしないのだが、ドーナッツを三つほど買って帰って仏前に供えた。私たちが結婚をしてからの間に葬儀にたった(都合で参列できなかった人も含む)人のことを私が尋ねてクイズのように回想しながら並べ替えてみると、母は考え込むこともなくスラスラと答えて行く。私は1問も正解を出せなかったかも知れないのに、自分の答えが正解ですとばかりに教えてくれた。

房子さん、きしさん、逸夫さん、忠知さん、父、静代さん、さだえさん、としさん、幸一さん、常夫さん、三生さん。

もう結婚式に出席した数よりも多くなってしまった。このあとに連なるのは紛れもなく母の名前であり私の名前なのだ。そう考えると、こうして大寒を過ごすことの大事さが見えてきて、この寒さが不可欠であり、父を語り継ぐためには再び冬を迎えたら寒い冬でなくてはならないのだと思った。

2013年1月25日 (金曜日) 【裏窓から】