忘れる  ❖  『忄』(りっしんべん)の漢字のこと

『忄』(りっしんべん)の漢字のことが目が覚めた直後に浮かんできて 二度寝ができずにしばらく考えていると「亡びる」「亡ぼす」と『忄』を合わせると「忙しい」「忘れる」になることを思い浮かべる。人生の終盤に差し掛かった者にとっては こういう漢字はまさに「心」に沁みこんできて 感慨が深いものが多い

❖ 忘れる

令和五年の師走を迎えている。そんな折に「忘れる」という言葉を思うている

この世を生きてきて 人はそれぞれ忘れたいことがいくつもあるに違いなかろう。だが ヒトは 自らの意思で記憶を忘れ去ることは ほぼ不可能に近く、過去にあった忌まわしい出来事を「忸怩」たる思いで振り返ることもあれば 生きる力となる歓びに感謝することもある

❖ 惚ける

「惚ける」という言葉を今年は頻繁に使った。身の回りでもボケてしまう人と接したり ボケてしまった人の話が耳に飛び込んでくることが多かった。目の前で起こる身近な出来事に目を背けないで 「惚けて」ゆく人を見つめ続けるしかない一年であった

医科学と永年付き合ってきていながら 惚けるということにおいては そそくさと諦めしまっていたかもしれないと振り返った。生命哲学との絡みもあり 精神科学が医学の王道では無い側面もあり、難しい社会問題を抱えている

❖ 忌まわしい

仕事を引退してから人との交流が激減して『忌』しい日常の出来事が少なくなったことは事実であるが それは美しい話では決して無い。忌まわしいものとは一体何かと考える

しかしながらそこで、人が生きていくにおいて 忌まわしいものに出会い 許せないことに怒り 苦い水を飲みながら生きていくのが常道であると気づき、それゆえ 都合のいいことにばかり目を向けて生きていれば 行き詰まりに遭遇して苦しむことになりかねないこともわかってくる

邪魔で都合の悪いことは忘れて仕舞えば良いかろうし 何よりも楽であるものの なかなか思うようにも行かない

平凡に生きている限りは 自らの意思で記憶をコントロールできないのだから 忘れたくても忘れられないことがどうしても残るのは当然のことで、そいつと どうやって付き合ってゆくのかということが 人生の最終コーナーでの課題の一つとなってくる

だから 都合のいいことを自由に勝手に忘れてし舞えるのならば それは死んでいるのと同じだ

忘れたくても忘れられないことがある一方で 忘れてはいけないこと山積している人生の最終コーナーで、物事を都合よく忘れて、大切なこととそうでないことの区別がつかなっくなってくるならば それは「惚」けの始まりだと言える

❖ 年を忘れる

師走を迎えている。忘年会の季節である

塩分制限生活を始めたので 年末年始の飲み食いの誘いはお断りをしていく予定だが それを聞いて寂しそうにしていたのは 母(92)だ
年末年始は 気兼ねなく飲み食いをして 年忘れをしたいと思ったのだろうか

大勢の人が集まった昔の年末年始の頃には 年の暮れを家族だけで静かに過ごしたいと夢見たこともあっただろう

だが、二十六年前に一家の主人である父が死んでしまって以来 その同じ時代に合わせるように 親戚中が寿命を迎え さらにこのご時世で 遠縁の付き合いや先祖の供養を簡素という名目で薄情に済ませるように社会が変化をしている

親子だけで静かに年の暮れを仕舞って 新しい年を厳かに家族だけで迎えたかろうと かつては夢に描いた違いない

今やっと夢が叶いそうな歳を迎えたら 九十歳を回っていたということか

❖ 訃報

こんなことを書いて師走の日々に自問を続けているとき、今朝、その九十二歳の六歳上の姉の死亡の知らせが届いた

孔子の言葉が浮かんだ

『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず』

❖ 『忘』

忙しい、忸怩、怨めしい、怯む、怯えるなどという字を次々と連想しながら 『忄』(りっしんべん)の漢字を探ってみると 二百以上が飛び出す

忘年会の『忘』という字を白紙の片隅に書いて今年をキッパリと忘れよう……と考えたら 「水には流せない」ことがたくさん思い浮かんできて 一年分の苦渋を思い出し次々と振り返ることになった

『心』という字を漢字に含ませると 喜怒哀楽のうちの『怒』と『哀』に関わる漢字が多いように思えるの気のせいなのか


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