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雪を休む。

2月7日(水) 2018

まだ、あちこちに雪が残っています。
北陸では、雪の地域がさらに
例年にない大雪になっているようです。
風情を楽しむくらいで、とどまれるのは
ありがたいこと。
寒さに断然、弱いので、とくにそうです。
根雪として地面にはびこっている様は
ほんとに、何もかもが寒々しくて
泣いてしまいそうです。泣きませんけど。

雪。で思い出しました。
三輪休雪、という萩焼の大家がいまして
萩焼のどこかの窯の十一代目。
名前のとおりの風情と姿、、なんて
わかったようなことを言いますが、、
器などへの興味がうすいわたしは、
聞いても教えてもらっても、なかなか
頭に入ってきません。
それでも、足りないところを補いたい
という意欲はあって、いろいろ
勉強はしていましたが、、
お金かけて聞きにいっても、、寝たことも。
興味がない、というのは、発展性が低い。。

ですが。
休雪さんのお茶盌をさわったときは
こんなわたしでも、いい「茶盌」、
すてきだな、と思いました。
少しでも親しめると、じわあっと
あちら側の方から発してくれるんですよね。
それはたとえモノであっても
こちら側に、何か発してくる、という
その呼応が好きです。

お茶人の多くは「休雪さん」と呼んで
親しみを込めますが、とてもとても
親しめるお値段ではありません。
どのくらいするのかも、じつは知りません。
こわくて聞けませんし、知らないほうがいいし。

世の中は広いもので、美術館にあるような
品々を、ふだん使いしている人も
少なからず、おります。
なので、いちいち驚いては要られませんが、
やはり庶民からは、空いた口がふさがらない
くらいのすごさもあります。
さしさわりないところで言うなら、
細川護煕氏、元首相、元熊本県知事
などは、そういった側の人ですね。
生まれたときから、ごっつい本物に
まみれて、それが当たり前の人たちです。
少数派ですが、いらっしゃいますので。

で。休雪さんですが。
「道」がつく稽古ごとなのに
先生を二回も替えてしまった、不届き者の
わたしが休雪さんの茶盌を、お稽古で
使わせていただく機会がありました。
前の師匠のとき。
粗相があったりした日にゃあ目も当てられない。
緊張しました。
ちょっと格の高いお茶会や
美術館界隈でこっそり開かれるお茶会では、
美術館に飾ってあるのを使う場合が
たまにあります。
たまにですが、誰でも入れるのもあり、
これは、もう、何としても参加するべき
機会と言いたい。

本物を自分の指で触って肌で知り、さらに
くちびるで知るなら、それはもう
深い関わりですから。

今の師匠では、うんと昔に
河井寛次郎のお茶盌だけを
勢ぞろいさせたお茶会の手伝いに
入れていただき、本物を触らせてもらいました。

休雪さんのお茶盌、失敗談を
ぼそぼそこぼそうと思ったのですが
やめておきます。
稽古ごとは、恥かいてナンボ、です。

あと、、今の師匠は
先生ご自身も、やっぱり先生がいい、と
今の先生についた出戻り弟子さんだと
打ち明けてくださったこともあるし、
先生ご自身が、とても寛大です。
お稽古以外の、プライベートまで
こまごま打ち明けられる目上の人は
そうそう、おりません。
そして、一番は、
出会ってからずっと今も、
この先生が大好き、ということ。
すべてにおいて信頼できます。
ご自分の欠けたところも必要なら
隠すことなく見せてくださいます。
本音で話せる師匠、です。

でも、しかし。
ここで絶対に甘えてはいけないのは、
前の先生の話は、みずから絶対に出さないこと。
聞かれたときは、答えますが。
余計なことまで答えてしまいそうなので
かなり控えめな人物と化してしまいます。

元カレ元カノの話はご法度、の心と同じ。
違いや発見はあっても、比較は絶対にダメ。
師弟関係は、恋愛関係にも親子関係にも
似て非なるもの。。
非なるものですが、似ています。

言わないけれど、
なかったことになるわけではないので、
こんな具合にほろほろとこぼしてしまいました。

休雪さんのことを書こうと思ったら
ぜんぜん違う結論にたどり着きました。

今どきに使う、萩焼や志野焼は
あたたかみが、うんと近づくようで
とても好きです。
高くはないけれど、とてもとても気に入っていた
雪志野の器を割ったことは、もう
そーとーな昔ですが、思い出してしまいます。

櫛の歯が欠ける、器が割れる、などは
身代わり、といわれることもあるので、
そちらの説を味わって、支持しています。
わたしの代わりに難を受けてくれて
ありがとう。の気持ちを込めて。

和に親しんで運を開く。


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