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めちゃくちゃ当たり前だけど、物語はどこかで『“受動性”の精算』を要求するなあ、と気づいた

 先日Discordで「みんなで映画みて感想言い合おう」みたいなのに参加して、スター・ウォーズのEp4(観るのは二度目)(おもしろかった)を観た時に思ったのだが、あんまりスター・ウォーズ自体に関係ないのでこっちにメモ。でもスター・ウォーズのネタバレをちょびっと含みます。
 正確には、似たようなことは前々から考えていて、Twitterなんかでもたまに呟いていたのだが、まとめようと思いつつサボっていて、まあ思い出したのでこの機会に、という感じ。

 本題。

 物語は受動的、ないしは偶発的に(あるいはそれを装って)始まることがある。
 スター・ウォーズでいえば、ルーク・スカイウォーカーが『たまたま』R2-D2の内部メモリに記録された映像を見てしまうというシーンがそうで、ルークは物語冒頭、士官学校に入りたがっているが、じっさいは危険な冒険を望んでいない。これは近所に住む老人、オビ=ワン・ケノービに、映像の正体、自分の親や、ジェダイについて聞かされ、「一緒に行かないか。王女を助けよう」と誘われた時でさえそうで、ここで彼は「家の仕事があるんだ」「帝国は憎いけど今はなにもできないよ」と尻込みしてしまう。
 そしてどうなるか?
 尺にして五分ほど後だが、家は燃やされ、叔父、叔母を殺されたルークは「すべてを失った。オルデラーンへ行くよ」と『自ら』旅立ちを決意する(このテンポのよさはスターウォーズの楽しさにけっこう貢献していると思うのだが、本稿とあんまり関係ないので今はさておく)。
 この決意はもしかしたら――シナリオ上、叔父、叔母の死をオミットするなどして――先へ引き延ばすことはできるかもしれないが、決意自体を排除して物語を解決することはできない。本筋のプロットがそのままなら、どれだけ引き延ばしてもたぶんオビ=ワンの死までだろう。まさか「家の仕事があるんだけどなあ」と思いながらデス・スターに爆弾を落とすことはできないし、戦いに参加しようとしないハン=ソロを「(帝国は強大だ。今はなにもできないよ)」と思いながら「金さえ貰えればいいのか?」と軽蔑もできない。はずだ(してたらちょっとしたサイコパスだ)。

 これは物語へ『受動的に』参加した場合、主人公はどこかの時点(おそらくはクライマックス以前)で、その受動性を解消するシーンがある、ということでもある。

 スター・ウォーズに限った話ではない。

 とりとめも無く挙げていくが、『涼宮ハルヒの憂鬱』でキョンはハルヒに巻き込まれて物語に参加し、最終的に彼女が自分にとってただのクラスメイトでないことを認める(あるいは『消失』の時点で「俺は楽しんでいて、自ら望んで参加している」ということを自認する)。『ピンポン』でペコは己の才能と、スマイルが自分にかけている期待に応えることを決意する。『サマーウォーズ』でただ場に居合わせただけだった健二は「夏希を頼む」「あんたならできるよ」と励まされたことで、「まだ負けてません」と陣内家を励ます役割を引き受け、『FINAL FANTASY X』で「これはお前の物語だ」とアーロンから言われたティーダはストーリー上の体験を経て「これが俺の物語だ!」と叫ぶ。

 物語は、どこかで主人公に主体性を要求する。言い換えれば、主人公はストーリー上において、「自分が主人公であり、物語の主体である」ことを観客・読者・視聴者に主張する機能を、どこかで担うことになる。
 当たり前じゃない? といわれるかもしれないが、話を作る上でこれが当たり前にあるかどうかはけっこう大事なことだ。でも、自分は今まであんまり意識してこなかった。
 これがないというのは、つまり自分は上達することなく佐為の力を借り続け囲碁界の猛者をボコボコにし続ける『ヒカルの碁』だし、山王戦に至っても「バスケ? 別に好きじゃないです!(でもハルコさんは可愛い!)」のスタンスのまま終わっていく『スラムダンク』だ。

 ものを書いていて、今ひとつ内容がハネんな、ということはある。
 強い物語を作るために(つまり、自分の物語が弱いのではないか? と感じたときに)「主人公がいずれかの時点で(典型的には、三幕構成でいうところの“プロット・ポイント”あたりで)、ストーリーに関わろうとする主体性を持っているか?」を疑うのは、良い習慣なのではないかと思う。

 脚本の指南書で有名な『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』の中で、シド・フィールドは「リアクションだけではダメ。人物の本質はアクションだ」と書いている。

 多くの野心的だが経験不足の脚本家は、登場人物の身の上に、何かが起こるように書いてくる。その結果、登場人物は常に周りの状況に反応するだけで、“ドラマ上の欲求”に向かって行動するのではなくなってしまう。しまいには、人物が脚本から消えてしまう。これは、脚本を書くプロセスでよく起きる問題だ。登場人物の本質はアクションだ。登場人物はアクションを起こさなければいけないのであって、受動的にリアクションばかりしていてはいけない。アクションこそが、その人が何者か示すことであって、しゃべることで人物が語られるのではない。このことは、一ページ目の、一文字目から意識されていなければならない。

 物語によっては、最初から目的に向かって行動を起こしている主人公もいる。『ローマの休日』の主人公はスクープをつかむために自分の意思で王女に近づくし、『カリオストロの城』のルパン三世はゴート札を標的として自らカリオストロ公国に乗り込む(このふたりの、物語における最終的な目的が“愛”に変質していくように、あるいはルーク・スカイウォーカーが当初士官学校に行きたがっていたように、得てして映画冒頭で設定された目標というのはストーリー全体からいうと仮初めのものではあるのだが)。
 でも、そうではなく、受動的な(リアクションから)物語が始まる場合もある。
 その場合はどうしたらいいか? 主人公が主体的な“アクション”を起こすためにはどうしたらいいのか?
 その答えが“受動性の精算”のシーンであって、ここで主人公は(上で色々挙げたように)「たまたま巻き込まれた」事件に対して、改めて「自ら望んで巻き込まれることを選択」するのだと思う。
 もちろん、主人公がその選択するのに必要な説得力というのは(キャラクターの価値観であったり、叔父・叔母の死といった何らかの出来事によって)それまでにきちんと示されていなければならないのだけど。

以下、いちおうエントリ書く前は考えてたけどあんまりまとまんなかったことのメモ(とっちらかっている)。

・“偶然”をきっかけに始まった話が(たとえばFateにおけるセイバー召喚と『鞘』のように)必然的な理由があったことが明かされるタイプの話があるが、こうした偶発性→必然性の流れも、こうした受動性解消の一種と言えるか。
・主人公の強さなどの裏付けとして“血筋”は昨今あまり好かれない印象があるが(要出典)、受動性の解消および主体性の獲得として弱いから、という説明は可能か。

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