ゲーマーの炎上から見るコノテーションの問題
はじめに
先日、プロゲーマーのたぬかなさんが、「身長170cm以下の男には人権がない」という発言をして炎上。契約解除となりました。
私は当該ゲーマーの名前も、所属している団体も知らなかったのですが、この炎上に関しては思うところがありましたので、ここで取り上げたいと思います。
私は彼女の行為を批判することも擁護することもしませんし、彼女に対する処置は適切であったのかも論じません。ただ、この炎上が、どのようにして起きたのか、何が大勢の人々の反感を買ったのかを見極め、『言葉』そのものの効果について論じるのが、このコラムの狙いです。(ちなみに、彼女は過去にも暴言を吐いていたようなので、自業自得という気持ちが強い)
ゲーム界隈における『人権』というスラング
まず、前提として、彼女の発言にある『人権』は、日本国憲法などに定められている基本的人権という意味ではないということ。これは『これがなければ土台に立つこともできない=必須条件』というスラングであることに注意しなければならないと思います。
私がスラング的な意味での『人権』という言葉を聞いたのは、『ポケモンユナイト』というゲームが記憶に新しいです。
このゲームは5VS5のチーム戦で、それぞれ性能の違うポケモン(キャラ)を選択し得点を競うものです。漠然とバスケのようなものと考えても差し支えないと思います。
その中で、ルカリオというポケモンは『人権』と言われていました。当時はバランス調整がうまくできておらず、プレイヤーのスキルに関係なく『ルカリオがいるチームが勝ち』と言われるほど、ルカリオの性能は飛びぬけて優れていました。別の言い方ですと『ルカリオがいないチームは舐めプ(相手を舐め腐ったプレイング)』というのもありました。メンバーの5キャラの中にルカリオがいれば人権があり、ルカリオがいなければ人権がない(試合の土台に立ってすらいない)ということです。
私は、それなりにこのゲームを続けていますが、今も昔もルカリオを所有しておりません。つまり、私は人権を放棄したプレイヤーと看做されていたわけです。しかし、私は人権がないと言われたとして、まったく憤ることはありませんでした。これによって、憲法で保障されている基本的人権が無くなったわけではないのですから。
私だけでなく、少なくとも私が知る限り、このことに対し「俺に人権がないとでも言うのか!」と憤った人間はいませんでしたし、問題提起をする人もいませんでした。
もし、この界隈において『人権』という語が恐れ多く神聖なものであったのならば、これがスラングとして定着する前に『別の言葉を用いるべきだ!』と、だれかが声を上げたでしょう。
だとしたら、今回の炎上の原因は、彼女が『人権がない』という表現をしたことではなく、別のところにあったということではないでしょうか?
このような『人権』ならば、炎上はしなかった。
私が思うに、彼女の炎上の理由は、単に多くの人を不快にさせたから起きたのでしょう。『人権』という言葉を用いたことは、さほど重要ではないように思えました。
不快にさせた原因は以下の二つあると思います。それは
①生々しさ
②高慢さ
の二つです。
生々しさについて
人間を含めて、多くの動物の本能には、子孫を残すために、自分が他の同性よりも優れているということを示したいという欲求が組み込まれています。社会的動物であっても、同性間において競争や、それに近しいものは存在しますし、同時に勝者も敗者も存在します。今回の炎上は、恋愛において自分は敗者であるとコンプレックスを抱いている人たちや、敗者になりたくないという強迫観念を抱いている人たちの神経を逆撫でしたことに起因していると、私は考えております。
もし、彼女の発言が以下のようなものだったら炎上しなかったように思えます。
この発言が、何故炎上しないのかと言えば、金髪碧眼の白馬に乗った王子様はフィクションの世界にしかおらず、世界中の男には敗者しかいなくなるからです。人類皆敗者であるならば、勝者に対するコンプレックスもなくなり、反発する気にもなりません。彼女は世間知らずの高飛車なお嬢様というキャラクター性を帯び、そのような人物に『お前に人権はない』と言われたところで、痛くもかゆくもないのです。
ここまで極端じゃなくても、『年収1000万円以上の身長190cm以上の20代の男性じゃなきゃ人権がない』という発言であったとしても、炎上は抑えられたと思います。なぜならば、この条件を満たせる男性は、もしかしたらいるかもしれませんが、99%以上の男が当てはまらないので、コンプレックスを抱いている人にそこまで不快感を与えないのです。彼女は『現実を見ろ』と、嘲笑の対象になり罵声を浴びせられることになるでしょうが、『人権』という言葉を捉えられて『差別発言だ!』のような批判は受けなかったように思えます。アホみたいに高い条件を付けたので、ツッコミどころはその部分になるでしょうから。「だったら、全人類の男性99.999%が人権がないということになりますな!」と嘲笑されて、相手にもされなかったと思います。
それを踏まえると、たぬかなさんの言う『身長170cm以下』という条件は、それなりに現実に存在しており、(少なくとも現代日本の一般的な美意識において)同性間の競争で不利な状態にある『生々しい』ステータスなのです。この『生々しさ』がよろしくなかったように思えます。私は彼女について詳しく知りませんが、夢見がちな乙女というよりは、シビアに現実を見据えた女性のように思えますので、一部の男性陣にとっては残忍な発言のように映ったのでしょう。ですから、白馬の王子様のケースとは違って、なんとしても否定してやらねばならないという気分にさせる発言だったのでしょう。
高慢さについて
もう一つの理由は、高慢さです。彼女の一方的な価値観の押し付けに思えるような発言も、反感を買ったのでしょう。
彼女は、大衆の意見を代弁しているかのような印象を受けます。『普通、そうなんじゃない?』というように。あまり話題にされていませんが、彼女は過去に胸のサイズがAカップの女性も人権がないと言っていました。胸のサイズに関しては、君ら(男性リスナー)もそう思うでしょ? と同意を求めています。
それならば、「お前の個人的な意見じゃねえか! 一般論のように語るなよ!」と批判が来てもおかしくありません。そのような高慢さが鼻についたのでしょう。『私の個人的な美意識でしかないのですが……』という前置きがあったのならば、何か違っていたかもしれません。
反対に、彼女の個人的価値観をひた隠しにした発言だったのならば、どうでしょうか?
言っている内容は同じなのですが、これならば炎上しにくいと思います。これは彼女の価値の押し付けというよりは、残酷な現実に対し、やるせなさを感じているように取れるからです。この発言の後に「たしかに私も低身長は認められないですし」と続いたとしてもです。もちろんこれは、自分の美意識を、さも世間一般のものであるかのように語っているので、小賢しく不誠実な態度ではあるわけですが。
これらが、彼女の炎上理由であると思います。彼女の発言が生々しく、一部の人にとっては看過できないものだったこと。彼女が高慢であり、反論したくなるようなものだったこと。
『人権』という言葉を用いたとしても、伝え方次第で炎上は防げたはずです。その界隈では当たり前のように『人権がない』というスラングが使われ続けていたのですから。
なぜ『人権』が論じられたのか?
だとすると、新たに疑問が湧いてきます。彼女に対する不満が上記のようなものだとしたら、何故、見当違いともいえる『基本的人権』と絡めた批判が湧き出たのでしょうか? それによって、彼女は『差別的な発言』を理由に契約解除となりました。
もし、彼女がの発言が『170cm以下の男は嫌いだ! 恋愛対象にはなりえない! 女と恋愛したければ手術しろよ』というものだったのならば、同じ程度の不快感をもたらしたとしても『差別者』の烙印は捺されなかったように思えますし、批判の声も少なかったように思えます。私には『人権』というワードは、彼女を叩くための、そして契約解除にもっていくための『大義名分』として機能していたように思えるのです。
私はこの理由を、こう推測します。論点を変えた2パターンの批判を見ていきましょう。
前者は、彼女の発言を不快に思い、その不快を素直に表明したときの批判。後者は、スラングを本来の意味に捉えた批判。
こう見れば、前者の批判者はどうも、堂々としづらいものです。批判は「傷つくだろ!」「傷つく人がいるだろ!」と、恋愛を語る女性に詰め寄っている感があります。「そんなに声を荒げちゃって、もしかして図星つかれちゃったんですか? 170cm以下さんたち」と、意地悪な横槍を入れられることにもなるでしょう。
それに比べると、後者の批判は、とても堂々と行うことができます。社会的正義という後ろ盾があるのですから。味方も多く付くでしょう。たとえ憤りの理由が全く別にあるとしても、です。『人権』という言葉が重要視されて批判された理由がわかります。
私は彼女に対し擁護も批判もしませんが、発言の一部を捉えて、ここぞとばかりに『よし! このワードを利用して、思いっきりぶん殴ってやれるぞ!」とウキウキしている人間を無視することはできません。社会的正義を後ろ盾にして批判する人の中に、狡猾で不誠実な態度を見ることができるのです。ここを捉えることができなければ、今後、なんの罪もない人間が狡猾なアンチ活動によって、被害を被るかもしれません。
言葉の性質 コノテーション
そもそも、なぜ、このような『大義名分』が生まれてしまったのでしょうか? 私は、言葉そのものが持つ性質が関係してくると思います。それは『コノテーション』で説明がつくと思います。これは、創作物の魅力を高めるのにも、また、悪用して難癖をつけるのに役立ちます。
コノテーションとは、言語に含まれている意味のことです。反対がデノテーションで、「そのままの」意味です。ポリティカリー・コレクトの『言葉狩り』などと揶揄される行為は、名目上は「脱コノテーション」と言うものです。
本によっては『暗示的含意』などと訳されていたりしますがコトバンクのブリタニカ国際大百科事典 小項目事典では『共示』と訳されています。ここの例題はわかりやすいので、引用しておきます。
スラングの『人権』という言葉は、憲法で定められている『基本的人権』を意味するのではなく、その権利が持つ性質である『生きていくために必須のもの』から転じた『ゲームをプレイする上での必須事項』を意味します。 元の意味である『人権』のコノテーションは、実に生々しく、厳格で、神聖不可侵なものであるのに対し、スラングの『人権』は、とても軽々しいことがわかります。
そして、このスラングを、あえて本来の意味で解釈し、その本来の言葉のコノテーションを強調することで印象操作をし、深刻化させて、発言者の名誉を貶めようと画策することも可能なのです。
過去に悪用された例を書いていきます。
ファシスト
配信者であるかどうかにかかわらず、言葉は軽々しく扱うものではありません。それは前提としても、どうしても意図的に曲解されて「差別発言だ!」と言われることもあります。
私の好きな配信者も、同じような手口で炎上を仕掛けられたこともあります。しかし、あまりにも難癖がすぎて相手にもされず、配信者本人も、その周囲も全くダメージを受けず、彼女を燃やそうとしたアンチが騒いだだけで終息したということもありました。
その出来事について述べていきます。
その某配信者Aは、『ファシスト賛美』の発言をしたと難癖をつけられました。アンチはニコニコ動画に切り抜き動画を上げて拡散し、Aが炎上している(まったくしていないのだが)と騒ぎ立てました。
しかし、その経緯を見ていると以下のようなことであったことがわかります。まず、Aの配信中に暴言を吐くコメントがあったので、Aは、そのコメントをNGにしました。そこでAは「実際にやったら駄目だけど、私のチャンネル内のことならばファシズムが許される」という発言をしたというものでした。アンチは、これを「ファシスト賛美」だと騒いでいたわけです。
中にはイタリアのムッソリーニを持ち出して、事を大きく見せようとしたアンチもいたのですが、この件における「ファシズム」は、『チャンネル主が管理者である』という意味でしかないことぐらい皆がわかっていました。切り抜き動画では「実際にやったら駄目だけど……」という大事な言葉がご丁寧にカットしてありました。要するに、その配信者Aの名誉を貶めることを目的にしていた捏造動画だったわけです。
しかも、その配信者の言う『ファシズム』は、自分のチャンネル内のことでしか効力を持たないというのですから、可愛いものです。現実のファシスト政権を否定しながら、自分のファシズムを見せびらかし、悪ぶって見せただけ。
しかし『ファシズム』という言葉だけをとらえて、名誉棄損のチャンスとしてアンチ活動に利用しようとした人が、少なからずいたわけです。それは今回のたぬからさんの『人権』という言葉を捉えて差別発言だと非難したことと類似しているように思えました。
この件を分析すると、『生々しさ』が関与していることに気づかされます。
もし、Aの発言が以下のようなものであったら、どう思うでしょうか?
これはニュアンス的には『ファシスト』と大差ないですが、頭の悪いアンチとはいえ、さすがにこれに難癖をつけるのには躊躇するでしょう。
もし、これに難癖を付けるとしたら
『封建制度を賛美しているんですか? 封建制度による身分格差を肯定するなんて……国王の我儘によって、罪のない庶民が虐殺された過去があるのに、その政治思想を肯定するなんて!』
となってしまいます。これはファシスト批判と比べると、いっそう滑稽に見えます。
この原因は、やはり『生々しさ』にあるんだと思います。第二次世界大戦は歴史的には新しい出来事であり、ファシズム、ナチズムは、非人道的というコノテーションがあります。
一方で、絶対王政は、それよりは昔の出来事であり、価値観も当時の人々と違っています。前時代的であっても、非人道的というコノテーションもありませんし、やはり『生々しさ』が足りないのです。
もし、芸人が一週間前に起きた殺人事件をネタにしたのならば、おそらくその芸人は芸能界から追放されるでしょう。しかし『パンがなければケーキを食べればいいじゃないの』というマリー・アントワネットのパロディを行っても、批判する人はいないでしょう。実際に、ルイ16世とマリー・アントワネットのせいで大勢の庶民が悲惨な死を迎えていたとしても。『生々しさ』というのは、それだけ効果があるのです。そういう意味でも『ファシスト』というワードは、Aを貶めたいと思っている陰湿なアンチにとって、恰好のネタだったのでしょう。
LGBTQフラッグ
デノテーションにしか触れていなかったにも関わらず、コノテーションを持ち出して難癖を付けるパターンもあります。これは、配信者がコノテーションを知らなかったために攻撃された例です。
配信者Bは、ゲーム実況プレイ中に虹色の旗を見て「ダサい」と感想を漏らしました。コメントにて「それはLGBTQのフラッグである」と教えられて、Bは取り繕いましたが、これに関しても、彼を快く思わないアンチが、ここぞとばかり「LGBTQを差別した」と吹聴して回りました。(当然ながら全く相手にされることはなかった)
これは『虹』が、「基本は7色でできたカラフルな模様」というデノテーションと「LGBTQのシンボル」というコノテーションを持ち合わせていたために起きたことであると言えるでしょう。
言うまでもなく、配信者Bには差別的な意図はありませんでした。彼はデノテーションしか知らなかったのです。そして彼個人の美的感覚から、その旗の模様をダサいと評したに過ぎません。これだけで「差別者認定」はあり得ないでしょう。せいぜい「世間知らず」と罵ることができる程度です。
私自身の例で言えば、『ハーケンクロイツ』は、とても素晴らしいデザインをしていると思います。色合いと点対称の図形は、”デザイン”として、とても好ましいものだと思います。しかし、それを理由に、私の政治思想がナチズムだと認定することはできないでしょう。このような発言をすると、一部の人間が不快に思うだろうと思って大々的に発言しようとは思いませんが。ちなみに私は全体主義を肯定する政治思想は持ち合わせていません。
ヨーロッパ史も政治も全く興味のない無知な少年が『ハーケンクロイツ』を「カッコイイ!」と言ったとして、「この少年は危険な政治思想を持っている!」と吹聴して回る人がいたら、その人は愚かで、意地が悪いとしか言いようがありません。
国旗の話でいえば、コノテーションも文化的背景が異なりますので、違う文化圏ではコノテーションの認識違いによって、争いが起こります。それは旭日旗のコノテーションが、(どちらが歴史的に正しいということに関係なく)日本と韓国で異なることからも理解できると思います。
同じ文化圏にいたとしても、コノテーションが同じであるとは限りません。コノテーションを巡る対立は、PC運動で起こることが多いのですが、これはその一例です。
「お~いお茶」という飲料がありますが、昔、この商品名の「お~い」が、「夫が妻を呼びつけてお茶をもってこさせようとしているみたいに聞こえる」とクレームをつけられたことがありました。同じ日本に住んでいながらも、中には「お~い」に、そのようなコノテーションを持つ人もいるのです。
おわりに
一人のプロゲーマーが暴言を吐いたことによって契約解除された。この当然とも言える出来事も分析してみれば、様々な要素があったことがわかります。ゲーマー界隈で使われていた『人権』というスラングと、本来の意味である『人権』の乖離。プロゲーマーがスラングを使ったことで、彼女を攻撃する『大義名分』が生まれてしまったこと。そして、今回のようなコノテーションによる印象操作は、意図的に、気に食わない人を攻撃する手段になり得るということ。
では、炎上を防ぐために心がけることは何でしょうか? それは、マイナスイメージがあったり、深刻で生々しい(リアリティのある)コノテーションを含む言葉を使わないようにすること。使うのであれば、「〇〇という意味において……」と前置きして予防線を張ることでしょう。もし、自分の好きな配信者が炎上してしまったときは、批判が妥当であるかどうかを判断し、あきらかにアンチ活動の類であったのならば、文脈を持ち出して「そのような意図はなかったことは明らかだ!」と擁護するのが良いでしょう。
コノテーションを応用することは、創作をするうえでも、創作を楽しむうえでも大事なことですし、多くのコノテーションを意識することで自分が何かしらの発言をする際に、不用意に誰かを不快にさせることを防ぐこともできるでしょう。その一方で、コノテーションを重視し、過度な表現規制、俗にいう『言葉狩り』という厄介な運動があるのも事実です。その言葉を封じたところで、実際に苦しんでいる人には、何の恩恵もない! と表現規制そのものの無価値を説く者もいます。それどころか、悪影響になる場合もあります。
手塚治虫の漫画のような、昔の漫画の中にある台詞が別の言葉に置き換えられたために、ニュアンスが上手く伝わっていないという批判があったのを覚えています。ニーチェの著書『ツァラトゥストラはこう言った』には、『せむし』という、今は差別用語となっている言葉が使われており、翻訳された書物の中には『背中の曲がった男』に置き換えられているものもあるが、それではニーチェが本当に伝えたかったことが上手く伝わらないと批判している哲学書も読んだことがあります。
私は、上記で『マイナスイメージがあったり、深刻で生々しい(リアリティのある)コノテーションを含む言葉を使わないようにすること』が炎上しないために必要なことであると書きましたが、あえてそのような言葉を用いることで伝えられるメッセージもあるでしょうし、そうすることで笑わせることのできる芸風があるのも事実でしょう。
スラングという面白い文化は、牙を剥いて使用者に襲いかかることもあるということを、私は今回の炎上で学びました。本来の意味とスラングの読み違え、それらのコノテーションの乖離が炎上を大きくさせてしまったのです。
しかし、どうあがいても、コノテーションから切り離された言語は存在しないのですから、私たちは、上手にこの性質と付き合っていかなければならないと思います。
行き過ぎたPC運動のようなコノテーションを巡る問題は、未だに決着をつけられずにいますし、様々な形で炎上を呼び起こしています。私たちは、それらの問題をしっかりと認識し、学んでいく必要があるでしょう。できるのならば、それを上手く活用して、人を楽しませたり、大事なことを伝えられるようにしたい。ありきたりですが、私はそのような結論に至りました。
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