✨引用記事✨ 〜エッフェル塔はドイツに対する文化的な復讐!?〜

エッフェル塔は1889年3月31日生れである。しかし、その歴史は1870年から71年にかけてフランスとプロシアの間で起こった普仏戦争、正確にはその結果であるフランスの敗戦にさかのぼる。敗戦国フランスは対独講和条約(1871年5月10日、フランクフルトで調印)によって、アルザス・ロレーヌの割譲と、50億フランの賠償金を三年間に支払うという屈辱と苦悩を強いられた。
戦争とその末期に起った内戦(パリ・コミューン)のダブルパンチのショックから立ちなおったフランス国民は必然的に対独報復の念にかられ、アルザス・ロレーヌ返還に執念を燃やした。早い話が、フランス人のだれもが、アルフォンス・ドーデの短編「最後の授業」ー短編集『月曜物語』に収められているーの主人公の小学生フランツの気持ちになっていたのだ。
·····アメル先生は教壇に上り、私を迎えたと同じ優しい重味のある声で、私たちに話した。
「みなさん、私が授業をするのはこれが最後おしまいです。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました·····新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意して下さい」
この言葉は私の気を転倒させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
フランス語の最後の授業!·····
(桜田佐訳、岩波文庫)
ここに表現されているようなアメル先生そしてフランツ少年の味った悲哀は、やがて全国的なフラストレーションに発展し、ブーランジェ将軍を旗頭とする「対独報復運動ブーランジスム」の台頭となった。
だが、一方において、勝算の見込みのうすい対独軍事対決よりも、経済力を強化して当時産業革命の先端をいく英国に伍して強大な産業国家としてプロシアに脅威を与える方が効果的であるとする現実主義論が台頭し、1870年代後半から1880年代前半を通じて、二つの政治勢力は激しく対立した。結果的には、産業立国論が大勢を占め、フランス政府は実力でプロシアにひと泡吹かせることに努力目標を定め、その方策の検討に乗り出し、その過程で生れてきたのが世界の注目をフランス産業に集めるような大規模な万博博覧会をパリで開催する計画である。
周知のとおり、万博は第一回が1851年にロンドンで開かれて以来、1855年と67年にパリ、1873年にウィーン、1876年にフィラデルフィア、そして1878年に三たびパリで開かれており、フランスは三度の開催を通じ、そのつどそれなりの成果をあげ経験も積んでいたわけだ。

たしかに、産業革命によって人類の生活様式は大きく変わりつつあった。つぎつぎに開発され、生産される「文明の利器」のおかげである。しかし、全般的には見た場合、人類は主として風を制禦できない不安から、宇宙空間に出る自由が得られず、地上にしばりつけられたままの状態だった。
当時のそうした「地上からの解放」を実現する唯一の方法、それは堅固な高層建築物を建設することであり、そういう意味でエッフェル塔は、現代において、スペース・シャトルが人類を地球から「解放」したのと同じような画期的な役割を演じたわけで、単なる万博の客寄せではなかったという点に注目したい。
いうなれば、エッフェル塔は対独臥薪嘗胆の申し子であったと同時に、人類が未来の宇宙征服を無意識のうちに意識して建てたバベルの塔だったのである。
そして、その存在理由は同じ19世紀の初めに立てられた軍事的栄光のシンボルである凱旋門とは対照的に、平和的ー産業的ー栄光のシンボルであったのだが、現実には、その後二度にわたる世界大戦を体験することになる。
その意味で、エッフェル塔はヨーロッパの空間に立っているだけではなく、「ヨーロッパの歴史の中に立っている塔」なのである。
したがって、この塔が存在する限り、その「歴史の証言」は続くわけで、これからのエッフェル塔には従来の観光名所としての価値に加えて、新たに「歴史の証人」という価値が備わり重みを増していくことになるだろう。


ーー倉田保雄『エッフェル塔ものがたり』(岩波新書、1983)

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