「他人に期待するな」の“他人”ってなに?
「他人に期待するな」と言う人がいる。
インディペンデントで活動しており、さらには独力で組織の運営管理までやっている僕には骨身に染みる言葉だ。
しかし実際には、「他人に期待するな」としたり顔でアドバイスしてくる人は、それを口実に自分ができる範囲の努力や気遣いをすら怠っている場合が多い。
要するに「他人に期待するな」の“他人”とは“自分”のことを指しており、「他人に期待するな」とアドバイスする人は「俺に期待するな。俺はおまえのために努力するつもりが1mmもない。でも悪いのは俺だけじゃない。他のみんなだってそうだろう?」ということが言いたいのだ。無意識的な自己弁護である。
同じことが
「社会は厳しいんだよ」
「世間は冷たいから」
「それが大人になるってことなんだよ」
などの“クソアドバイス”にも言える。
こうしたセリフをわけしり顔で口にする人たちは、自分が管理調整できる範囲の小さな「社会」や「世間」、「大人」からも退却し、分け与えられた責任を放棄している。
クソアドバイスがクソダサいのは、それを口にする人たちがどこかしらいつも“イキって”おり、「俺は社会や世間というものをよく知っている。おまえと違い、俺はその中で強くたくましく非情に生き抜いてきたのだ」という謎の自負に支えられており、その癖、無意識の自己弁護にまるで気がついていない点だ。
一見強者然として見えるこの種の人たちは、実は吹けば飛ぶよな弱々しい性格の持ち主なのだ。
裏切られるのがこわくて、傷つくのがこわくて、他人に期待する勇気が持てない。といって、自分が努力して他人の期待に応えるつもりもさらさらない。
そこで「社会」や「世間」という大きな枠組みを持ち出して、弱い自分を慰めようとするわけだ。
「こんなに弱いのってぼくちんだけじゃないよね?ね?ね?このままでいいよね?ね?」というわけだ。クソだせえ。
あまつさえそれをアドバイスとして臆面もなくこちらにぶつけてくるのだから始末に負えない。
なぜ「俺に期待しろ。その代わり、俺もおまえに期待する」とシンプルなことが言えないのか?
“わかっている人”は自分がエラぶりたいだけの無意味なアドバイスなんかしない。
代わりにこう言う。
「俺に期待しろ。俺もおまえに期待する。
一緒に、それぞれのポジションで、できる範囲のことをがんばろう。
落ち込んだ時は飯でも行って、お互いが思ってることを存分に話し合おう」
一緒に、しかもばらばらに。
プレゼントは常に交換されるべきなのだ。
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