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わたしが映画として見た『Tokyo Summer』(脳内で)

『東京サマー』(2013)予告編

・あらすじ

穰一は死にかけていた。重い腰を上げてようやく病院にかかった頃には、肺に患った癌は既に全身に転移しており、年老いた医師から余命三ヶ月を宣告された。それならいっそと、自らの意思で命を絶つことに決めた。一度決めてしまうと不思議と気持ちが楽になり、若い時分に憧れて読んだヘミングウェイの小説『キリマンジャロの雪』を思い出す。
キリマンジャロ山の標高6000メートルもの高地に生息するジャコウネコは、自らに死期が近づいていることを知るとそっと群れを離れ、誰にも知られることなく静かにその生涯を終えるという。
俺もあんなふうに死にたい。誰にも気付かれることなく、静かに。
臨終の地にアイスランドを選んだのは偶然に過ぎない。「とても人間の手には負えない、なにか美しく恐ろしいものの中に身を投げて死にたい」などとぼんやり考えていたところ、所帯を持っていた頃に娘と一緒に見た壮大な氷河の光景が浮かんできたのだ。
禍福は糾える縄の如し。
初めて降り立った異国の地で、穰一は運命的な出会いを果たす。旅行者用の安モーテルの近くにあるバーで知り合ったその女・今日子は、穰一がそれまで出会ったことのないタイプの女だった。
子どものようにはしゃいでいたかと思えば、次の瞬間、こちらをどきりとさせるほど大人びた表情を見せる。流行りの曲を楽しそうに口ずさんでいたかと思えば、振り返ると暗い目をして遠くを見ている。
過去のある出来事から心に傷を負った今日子のけなげな明るさに癒されていく穣一。まっすぐな瞳の奥に暗い光を宿す穣一の姿に亡き父の思い出を重ねる今日子。
こうして親子ほども年の離れた二人の逃避行が始まる。スカイダイビング、蝋人形館、そしてあの雄大な氷河へと。
死の決意を互いに胸に秘めたままーー


・感想

鮮烈なデビュー作だ。
若干二十歳の監督の名はフェイ・カーウァイ。
そう、『欲望の翼』『恋する惑星』などの傑作群によって世界中を虜にした名匠ウォン・カーウァイの実の娘である。
地元の映画学校を優秀な成績で卒業したフェイはその後アメリカの名門UCLAの大学院へと進み、その縁が手伝って西海岸で活動するさまざまなバンドのミュージック・ヴィデオを手掛けるようになったという。中でも、このところ耳の早いリスナーの間で話題沸騰中のLA発インディー・ポップ・バンドMountiesへの提供作の出来は特筆に値する。
そんな彼女の記念すべき長編映画デビュー作が本作、『東京サマー』だ。
技巧派の父親の印象とは裏腹に、ストーリーは意外にも(?)王道そのもの。小手先の技術に頼らない姿勢が頼もしい。
登場人物はたった二人。若き日に酒に溺れ、妻と子供に離縁された挙句医師からステージ4の肺癌を宣告された穣一。過去のある出来事から男性不信に陥り、恋に臆病になっているショーダンサーの今日子。
それぞれに死を決意している二人が、偶然にも同じ死に場所に選んだのは、壮麗な氷河を抱く地アイスランド。かくして運命の歯車が回り出すーー
イマドキ信じられないほどにベタな展開だが、とはいえ語り口は巧妙そのもの。
冒頭、アイスランドの流氷が怒涛のごとく奔流するさまがアップされる。その光景にフレーム外から「とても人間の手には負えない、なにか美しく恐ろしいものの腕に抱かれて死にたいと思った」という穣一のモノローグが重なり、映画が幕を開ける。ストーリーはその後も基本的に彼の一人称視点に沿って進行してゆく。要するにわれわれは穰一の見ている世界像を共有するしかないわけで、今日子の側の事情はほとんど明らかにされない。それが後半に至って鮮やかに覆される演出が見事なのだが、ともあれ、先を急ぐには早い。ひとつずつ見ていこう。

・テクニック①アクション・カット

基本的な話から始めたい。
映画作家としてのフェイのスタイルは正統派で、たしかな技量を感じさせるものだ。
例えば、今日子がホテルの部屋でドライヤーで髪を乾かしているカットが、「風になびく髪」のクロースアップとイメージの連関によって、スカイダイビングの演習場でインストラクターとともに猛烈な風に噴き上げられている今日子のカットへと瞬時に繋げられるくだりはどうだろう。
人や物体の運動性(アクション)を軸にして異なる時空間をなめらかに接続する王道テクニック、いわゆる“アクション・カット繋ぎ”の典雅な例がここに見て取れる。
同様の演出は他の場面にも登場する。
映画後半、レイキャビクのアミューズメントパーク“ベイ・エリア”でピンボールやボーリングを楽しんだ二人。照明が落ち、店の売りであるチークタイムが訪れると、今日子は穣一をダンスに誘う。「踊りは苦手なんだ。それより君が踊るところを見ていたい」とつれない穰一の反応に火がついたものか、「よーし、見ててよね!いやでもその気にさせちゃうんだから!」とベリーダンスで培った腰のひねりを活かし誘惑の舞いを披露する今日子。本作のクライマックスを成す愉快なシーンだ。
キャメラはテキーラサンライズを片手に踊る今日子の肉体の各所と、その様子をぼんやり見守る穣一の表情を交互に捉えつつ素早くカットを切り替えていき、シーザーサラダにオリーブオイルを振りかける速水もこみちばりに高い位置からグラスに酒を注ぐ今日子らしき人物の手元のクロースアップに行き着く。続く瞬間、キャメラが引くと、舞台はあっという間に薄暗いホテルの部屋に早変わりしているという仕掛け。
ここでも、「グラスに酒を注ぐ手」という運動性を軸にしたアクション・カット繋ぎが披露されているのである。
特に後者の繋ぎは、あらかじめ「踊る」「揺れ動く」という運動性が前フリされ、アミューズメントパークとホテルの部屋とでライティングの光度が合わされているため、実にスムーズだ。
おそらくほとんどの人がこの劇的な空間移動の効果に気付かないに違いない。

・テクニック②ダブル・イメージ、スローモーション

ダブル・イメージは、シュルレアリスムの画家サルバドール・ダリが好んで用いた手法で、あるひとつの図像が見る位置や解釈によってふたつ以上のものに見える視覚上のトリックのことを指す。
映画でもサブリミナル的に用いられることが多いのだが、本作では特に興味深い使い方がされている。
ロンドンの観光スポットのひとつであるマダム・タッソー蝋人形館の分館として作られた(実はロンドンとレイキャビクは姉妹都市なのである)サルミアッキ蝋人形館の庭で、恐竜たちの等身大の像を見て大はしゃぎする今日子。
大口を開けて佇立するティラノサウルス象の前で振り返り、同じく大口を開けて穣一に笑いかける。後に見るように、このダブルイメージがわざわざスローモーションで捉えられることは偶然ではない。
続いて館内に入るシーンで、今日子が最初にケータイで撮影する蝋人形もまた大口を開けたジョニー・ロットスター。対して、その様子を見た穣一は口を閉ざし、なぜか悲しげに目を伏せる。さらに彼がベラ・ルゴシとクリストファー・プリースト、それからマリア・サルコヴァの蝋人形が腰かけているテーブルに座るシーンでも、穣一を含めた三人の男の口許はしっかりと閉じられており、マリアだけが大口を開けて笑っている。
つまり、ほぼセリフなしで進行するこのシークエンスは、男と女、穣一と今日子が、本物の人間とそのフェイクであるところの蝋人形ほどもよく似ており、それでいて同じ分だけ異なっていることをダブル・イメージによって表現しているのだ。
似ているようで、違う。同じものを見て正反対の反応を見せる二人のすれ違いは、ラストシーンに至って重大な結果を招くことになる。

・問題のラストシーン/1回オモテ

夢のように甘美でアイスティーに浮かんだ氷のように溶けやすい二人の恋は終着駅へとたどり着く。
学生時代、まだ若く気力に満ち溢れていた頃に読んだヘミングウェイの小説『キリマンジャロの雪』の扉ページに走り書きされた読了日のメモ。
「1968.0825. Tokyo, Summer」
穣一は8月25日を自らのエックスデーに定める。
かくして訪れる当日の朝。
踊り疲れて眠りこんでいる今日子を残しそっとベッドを抜け出す穣一。二人分の皿が用意されたテーブルで、一人きりの静かな朝食を摂る。今日子とともに過ごしたのはたかが数日間の出来事にすぎないのに、ずいぶんとひさしぶりなように感じられる。
再びサルミアッキ蝋人形館を訪れる。相変わらずあのティラノサウルスは大口を開けて笑っているが、そこに今日子の笑顔はない。スローモーションで強調されるダブルイメージの効果によって、われわれは今日子の不在を否応もなく印象づけられるのだ。
禊は済んだ。
穏やかな表情で歩き出す穣一。後ろ姿にナレーションが重なる。
「東京から始まった俺の青春は、遥か異国の地、ここアイスランドで終わる。まったく、夏だというのにここは真冬のようだ」
そして辿り着く。いつか娘とテレビで見た、今日子と二人で並んで見た、あの美しく恐ろしい氷河へと。
しかし穣一がその後どうなったのかはわからない。行為の純粋性に身を委ねて本懐を遂げたのか、今日子との出会いによって芽生えた生への執着から決行を取り止めたのか。
ポウッカ国立自然氷原の雄大な流れのクロースアップを冒頭と同様に捉えつつ、映画は幕となる。

・問題のラストシーン/9回ウラ

だが、騙されてはいけない。
このラストシーンにはあるとんでもない罠が仕掛けられている。それは穣一の独善的なナレーションの裏側で進行している今日子のドラマ、男性によって一方的に見られる・語られる主体としての女性がもたらす不意打ちの衝撃だと言っていい。
穣一と違って、今日子の側のトラウマについて多くが語られることはない。わずかな情報から推測できるのは、過去にある男(義理の父?)から性的な虐待を受けたことから、男性に対し恐怖心を抱いているらしいこと。そのトラウマから女としての自分を鋭く意識するようになり、けばけばしい化粧とラプンツェルのようなロングヘアーによって傷つきやすい内面を保護しているらしいこと(髪を乾かすのを面倒臭がる今日子に、穣一が「切らないのか?」と聞くと、今日子は「お守りだから」と意味深な答えを返す)
そしておそらくは、彼女もまた死ぬことを決意しているだろうことだ。
見せ場となるベリーダンスのシーン。ベイ・エリアからホテルの部屋へと、カットが切り替わってなお、酒を片手に無心に踊り続ける今日子。穣一は既に上半身裸となってベッドに入っている。
そこに疑惑のショットが挿入される。踊りながら、穣一がこちらを見ていないことを横目で確認するふうの今日子。再び「高い位置からグラスに酒を注ぐ手」のクロースアップ。カットの最後にその手はグラスから離れフレームアウトして行き、続くカットではジンライムの中に白い錠剤のようなものが溶け出している様子がちらりと映る。(が、単に炭酸の泡のようにも見え、判然としない)
そして翌朝。
一人ベッドを抜け出す穣一。
今日子はまだぐっすりと眠っている。
が、この場面は少々不自然ではないだろうか?いつも穣一より早く起き出し、その癖メイクや身支度に必要以上の時間をかけては年上の恋人を困らせていた彼女が寝坊とは!
はたして今日子はほんとうに眠っているだけなのだろうか?
ひょっとすると、二人のエックスデーは同じ日だったのではないか?

・深読み考察、ラストダンスはわたしに

なにせまったくの偶然から同じ死に場所を選んだ二人だ。ありえない話ではないだろう。
すると、例の“ベイ・エリア”でのシークエンスが切なく胸に迫るものとして新たに感じられてくる。
奥手な彼女にしては珍しく、人前で穣一の指に指を絡ませ誘惑する今日子。
「ねえ、踊ってよ」
あれは彼女に許されたせいいっぱいの懇願だったのではないか?
きっと本当はこう言いたかったのだ。「あたしと一緒に地獄に堕ちて」と。
このように考えれば、ダンスシーンで流れるBGMがドリフターズの名曲『Save the last dance for me』(のビージーズによるカバー)である点にも大いに納得がいく。
生命のエロスを力いっぱい発散させるあの踊りは、今日子が穣一のために取っておいた“ラストダンス”だったのだろう。
にも関わらず、陰気な顔で自己の物語に陶酔している穣一の返答はといえば·····
いずれにせよ真相は闇の中。穣一と同様、今日子のその後もまた、キャメラに映し出されることはないのだから。

・まとめ

フェイ・カーウァイ監督のデビュー作『東京サマー』は、ありふれた男女のラブストーリーを軸に、自然と人工(雄大な氷河と、窓越しにそれを臨む無機質な高級ホテルとの落差)、ホンモノとニセモノ(吊り橋効果によって結ばれた即席のカップルと、有名人を模倣する蝋人形たち)の対立など、普遍的なテーマを展開させつつ、昨今のフェミニズムの高まりとも呼応する鋭敏な感性を閃かせた傑作である。
拙文が、少しでも多くの方がこの宝石と巡り会うための一助となってくれれば、筆者にとってこれに勝る喜びはない。


ーーロッキンオンジャパン映画部 レイキャビク支社特派員 ポウッカ・リスト
日本語訳 脱輪

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