見出し画像

ドガを断罪するドガ、『エコール』

批評を実作で(特に映像作品で)やるとおもしろいのは批判対象を対象とした逆説的なフェティシズムを誘発するからで、例えば、ある恐るべき秘密を有する全寮制のバレエ学校を舞台にした映画『エコール』(2004)は、ドガの一連の絵画で描かれた女衒としての男性性及び特権的な覗き魔たる観客の無自覚を告発する試みであるとともに、絵の内側に入りこみ女衒になり代わって踊り子たちの肢体を心ゆくまで観察したいという仄暗い欲望を叶えてくれる装置でもある。
現に、制作者の意図とは裏腹に、2000年代前半頃まで『エコール』は、mixiのトップ画像が青空な女の子たちの“꙳★☆*゚my favorite꙳☆★*゚”のひとつだったのだ。フランス映画、オシャレ、出てくる女の子たちや衣装がかわいい、耽美的、うっとり·····というわけだろう。『リリイ・シュシュのすべて』『ヴァージン・スーサイズ』『空気人形』などの作品にも、かつては同様の受容のされ方があったことを記憶している。
だが、このような表層的な読み、動物的な反応をどの程度まで誤読だと言い切れるだろうか?
これは表現と解釈行為を巡る重要なポイントだ。
ある者の言動の行き過ぎをだれかに伝えようとする時、人は往々にして憎むべき敵のモノマネをする。その者の目立つ特徴、声音や態度をおおげさに模倣してみせるのだ。「俺が女性は尊重すべき存在だって言ったら、あいつは最低にもこう言いやがったんだ、『女なんか所詮は安物のアクセサリーに過ぎないのさ』ってな!」という具合に。このセリフを聞かされる者はおそらく、カッコ「」内の話者による発言と二重カッコ『』内のあいつのモノマネ部分とを容易に区別することができるに違いない。話し手・あいつ・聞き手の三者がそれぞれ顔見知りであることが、聞き手のうちに笑いを誘い、怒りをかき立てるための、つまりはモノマネが期待通りの効果を発揮するための前提条件になっているからだ。
だが、同じ内容が日常会話のレヴェルを越えて作品として表現される時、受け手がオリジナル(伝えたい真のメッセージ)とモノマネ(断罪すべき偽のメッセージ)とを区別することは途端に困難になる。なぜなら、この場合の受け手は不特定多数の他者であり、話し手・あいつ・聞き手の間にあったような共通了解が成立するためのさまざまな前提を欠いているからだ。
従って観客は、「女性は尊重すべき存在だ」と「女なんか所詮は安物のアクセサリーだ」という二つのメッセージのうち、どちらを真実のものと受け取るべきかをただちには判断できない。オリジナルより強く主張しているように見えるモノマネ部分(モノマネは基本的に誇張された表現だから)を真のメッセージと解釈する者が出てきたとしても、無理からぬことだろう。
原理的に言って、オリジナルとモノマネとを区別するための材料は作品内部には存在しない。同じ画面に同じように表出される限りにおいて、両者は等しいレヴェルにあるからだ。観客はいずれか一方ではなく、両方を同時に受け取るしかない。この点が作品鑑賞の醍醐味であり、また難しさでもあろう。
より適切な判断を下すためには、新たに作品の外部から材料を探し出す必要がある。監督や演者のインタヴューを読むなり作品の成立背景を調べるなりして。批評理論には、こうした個別の手間を省いてくれる応用可能な道具としての利点がある。例えば『エコール』を読み解く際に、あらかじめフェミニズムの理論に通じていれば、多少なりとも監督の来歴を辿る手間が省けるに違いない。
作品において、対象への告発を効果的な表現たらしめるには、時にその対象をモノマネするという逆説的な手続きが経られなければならない。しかし、語り手がモノマネのつもりであっても、オリジナルを知らない聞き手にはそれ自体が真意として伝わってしまう可能性が残される。いや、むしろこう言った方が正確か。不特定多数の人間を受け手として想定する表現行為には、そもそもオリジナルもモノマネ(フェイク)も存在しないのだと。そこにはただ解釈の問題だけがある。
変態を告発する映画は、必要上、変態そのものを描く映画よりいっそう強烈に変態の変態ぶりを描き出さねばならないから、結果として変態そのものを描く映画をはるかに上回る変態映画になり得てしまう。つまり、『エコール』の実質とは“変態を断罪する変態映画”なのであり、いずれの側から作品を判断することも間違っているとは言えないのだ。
比喩的に言って観客は、ドガの絵の中の女衒を外から見ることも、女衒“になって”見ることも、それを同時にやってのけることすらできてしまう。踊り子を見る女衒を見ることが可能な点において、われわれは責任を免れた特権的な覗き魔なのだ。作品鑑賞とは、人間の高度な判断能力と畜生の浅ましさを等しく身に引き受ける経験であることを忘れてはならない。
作品に無意識的に表出された男性性による女性性の収奪、及びその美化された様態、つまりはドガ的なるものを断罪しようとするあまり、驚くほど上手にドガのコスプレをやってのけてしまった映画=『エコール』を見る時、われわれは観客であることの罪深き愉悦に浸るのだ。

野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。