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唇の裂け目は鏡の向こう 〜映画史上最凶の天才アンジェイ・ズラウスキー監督の謎めいた遺作『COSMOS』に対するいくつかのアプローチ〜





・プロローグ


触感に優れた映画だ。
手と指。
口と唇。
言葉と欲望。
そして、ザ・ダブル(分身)。

言葉と欲望の、頭と体の、なにかを欲することとそれを手に入れることとの絶望的な距離を描く映画だ。
あるいは愚かしくかまびすしい人間たちと、黙ってその狂騒を見つめる無愛想な神との。

・あらすじ


試験に失敗した法学部生ヴィトルド(ジョナサン・ジュネ)は逃げるようにポルトガルの小村に赴く。合流したファッションアシスタントのフックス(ヨハン・リベロ)に当初宿泊予定だったホテルの悪評を聞かされ、二人で家族経営の民宿に宿泊することに。
そこにはヒステリー気味の女主人マダム・ウォティフ、盛んに衒学を弄する変わり者の夫レオン、口唇炎を患っており唇に断裂のようなできもののある女中カトレッテ、そして美しく奔放な娘レナが住んでいた。
文学オタクの陰気な青年ヴィトルドは自分とは正反対のレナに恋心を抱くが、レナはハンサムで将来有望な建築家リュシアンと結婚したばかり。
時を同じくして、鬱蒼とした森の入口に当たる民宿の庭では、スズメやニワトリなどの首吊り死骸が相次いで発見されていた。
不穏な空気が漂うなか、ヴィトルドの叶わぬ想いはレナに対する妄想的な執着心へと高まり、演劇的に過剰な仕草を伴う痙攣の発作となって現れ始める。
そこへレナがかわいがっていた犬が首吊り死骸となって見つかる事態が発生。
「この次はなにかもっと大きな生き物が犠牲になるのではないか?」
不吉な予感を振り払うべく、レオンは一堂に隣村へのドライブ旅行を持ちかける。
はたして辿り着いたロッジには、容姿はカトレッテそっくりだが口唇断裂のない聡明な娘ジネットが暮らしている。レオンは突如人が変わったかのように隠者然とした風貌に身をやつし、予言めいた言葉を口走るようになる。
かくしてその予言が成就する時、歪な世界に審判の時が訪れる·····


・過剰なおしゃべり、空虚な言葉

『コスモス』の登場人物たちはとにかくよくしゃべる。しゃべりまくる。大袈裟で芝居じみた身振り手振りを交え、激情とともに自身の感情を伝える。いや、伝えるのではない。伝える気などさらさらない。今まさにからだの中からせりあがってきたパトスを、嘔吐寸前の未分化な欲望を、他者のいる空虚な場に向かって投げつけるのだ。
「おしっこいきたい!」
「おいしいものがたべたい!」
「いいおんなをだきたい!」
「もううんざりだわ!」
「あなたってばいつもそうよ!」
「あいしてる!あいしてるのよ!にくらしい·····」
例えるならこんなふう。
そのあまりの自由さ、社会規範から平気で逸脱した獰猛な自由のいきいきとした発露に、われわれはたじろぎつつ、魅了される。
「うおー!こんなむちゃくちゃやっちゃっていいんだ!!!·····でも、まじ?」
解放された人間の挙動に接するとき、見ているわれわれの側もまた一種の解放感を受け取る。
しかし油断してはならない。
激情の下には巨大な抑圧が潜んでいる。
パトス、パッション=情熱という単語はもともとギリシア語で受苦を意味した。彼らの激情は自身でも由来のわからぬなにかしら根源的な痛みの発露であることが、物語の謎を構成する動物たちの首吊り死体の乱舞から知れる。
最初はスズメ。
何者かの手によって、青いケーブル線に黒い糸で首を括られ。
話によれば、前日には鶏が電信柱に吊るされていたという。
続いて、犬。
そして最後にはもっと大きいものが·····
現実離れした出来事などなにひとつ起こらない本作にあって(なるほど登場人物たちの言動はいずれも控えめに言って情緒不安定、率直に言って常軌を逸したものであるとはいえ)、しかし、どこかしら神秘的な雰囲気が常に漂っており、ひっそりとした静けさがやがて耳を覆う不安の叫びへなって膨れ上がっていくさまが恐ろしい。

・神話的リアリズム


それにしても、本作のトーンを支配する奇妙に現実から遊離したリアリズム、筆者の言葉で言うところの“神話的リアリズム”はどこから生まれているのだろう?
その要因は、まずなによりも何者かの手によって首を括られる動物たちの物言わぬ存在感によるところが大きいだろう。
純粋な悪意のゆえではない。明らかになにかもっと恐ろしい事態を未然に防ぐための必要な犠牲=sacrificeとして、獣たちはその命を捧げられている。
そのような予感が登場人物たちの間で暗黙のうちに共有されているがゆえの、神秘的な気配。
まるで人ならざる者の手によっておごそかに儀式が執り行われているような·····
電信柱から、ケーブルからだらりと垂れ下がった、かつて息をしていたものたちの生々しい死骸。その姿はわれわれに新約聖書中の最も有名な場面を思い起こさせる。
キリストの磔刑。
ユダヤ神官たちの増長ぶりに公然と反旗を翻し、愛の思想を説いたイエス・キリストは民衆の無理解に苦しみ、最後には全人類の罪を贖うべく十字架上で磔となった。
sacrifice。
英語圏において大文字で“SACRIFICE”と書けばそれはそのままキリストの磔刑を意味するが、宗教画の一主題としても知られるこの出来事はまた次のようにも言い換えられる。
“PASSION”=受苦と。
人間的な情熱が苦痛を隠蔽するための饒舌となって現れる世界では、すべてが反語として理解されなければならない。
いったい、本作において一度でもまともなコミュニケーションが成立する場面があろうか!
食卓でヴィトルドとレナの間で取り交わされる手指のゲーム、恋人同士の親密な接触をシミュレートする儀式は、それがシミュレーションに過ぎぬ一事からも明らかな通り、本当は誰にも触れることができぬ者の滑稽な悲しみをわれわれに伝える。ここには抑圧された世界の無意識としてのより根源的なわかりあえなさ、人間相互における言葉の断裂=唇の裂け目が横たわっているのだ。

・全体を擬態する部分、身体なき器官

ほとんどだれかがなにかを喚き立てている場面とみなでそろって食事を摂る場面の順列組み合わせのみで構成されている過激なまでに純粋な口映画(オーラル・ムーヴィー)たる本作にあって、それでいて人々の会話が意味の像を結ぶことはけっしてなく、言葉はコミュニケーションのための有用な具として機能しない。こう言ってよければ、誰もがあらかじめ正常なコミュニケーションを断念して開き直っているようにすら思えるのだ。
テーブルに散乱し、あたかも死骸の山のように折り重なっていく空虚な言葉の群れは、レストランのショーウィンドウを飾る見本品のようでただでさえ食欲を減退させるグロテスクな料理の数々を汚し、さらに味気ないものに変える。
会話と食事。いずれも口を媒介としたコミュニケーションが不成立に終わった舞台の上で、人間たちの手指は、口唇は、次第に持ち主のからだのコントロールから逃れ、自律的な運動の遊戯を始めるだろう。
幾度も繰り返される、ヴィトルドとレナの触れそうで触れない食卓における手指の駆け引き。
真っ赤なルージュを引かれたレナの唇と動物の血に濡れたヴィトルドの指。
細長い煙草を口に咥え、震える指先で火をつけるヴィトルド。そして後の場面で、同じようにレナ。
レナの指が持て余した煙草は皿の上に投げ捨てられ、さらにテーブル下に落下、ヴィトルドがそれを拾うと、ようやくレナの唇へ。
このように、手と唇はまるで独立した生き物のようにエロティックな運動を繰り返し互いに求め合うが、結局は最後まで触れ合うことがない。
ヴィトルドの指先とレナの唇との出会いは、ピタゴラスイッチのように機械的で滑稽な過程を媒介してようやく可能になるものでしかない。
人間的な交わりの可能性が放棄されありうべき全体性が捨て去られる時、部分が全体にとって替わり、グロテスクなやり方でその欠如を埋めようとする。もはや充全に機能しなくなった身体に代わって器官たちが、ヴィトルドとレナとの間にある絶望的な距離を物語るのだ。


・クロースアップ〜切り取る、拡大する、伝染する〜


思えば、本作の登場人物たちがヒステリックに喚き立てる言葉の尽くがわれわれの記憶に残らないのとは対照的に、彼らの手や目、唇を切り取ったショットのイメージは忘れがたく鮮烈な印象をもたらす。
あたかも、映画という虚構の生産物に一方的かつ暴力的に目で触れる特権を備えたわれわれ観客の方が、そこに映し出される物象たちにからだを触られ、肌をまさぐられているかのような居心地の悪さ。
こうした触覚的なきもちわるさの所以は、先述した身体なき器官たちの運動がもたらす特殊な生理感覚の伝染にあると言えよう。映画において、皮膚感覚はまなざしを通じて伝染る(うつる)のだ。
技術的に言えばこれは、クロースアップ技法の多様によって生み出されている側面が大きいだろう。なぜなら、クロースアップは(その多くが物語の鍵を握る)ある対象に観客の注意を促す効果とは別に、全体から部分を、人間身体から器官を切り離し異物として再提示する効果を担っているからだ。
クロースアップによって新たな生命を吹き込まれた器官たちはわれわれに馴染みのない不気味なオブジェとしてふるまい始める。
とはいえ、すべての器官が映画において平等な取り扱いを受けてきたわけではない。
映画史においてキャメラのまなざしがより多く注がれ好んでクロースアップの対象となり続けてきた器官。それは、手、目、口の三つの部分であると仮に断言してしまっても、さほど大きな異論は出ないに違いない。

・手/目


映画史において目と手は古くから特権的な地位を獲得してきたが、それらが重視される理由は正反対であり、両者はちょうど鏡写しのような関係になっている。
キャメラが人物の目をたびたびクロースアップするのは、自己言及ないしは自問自答の試みであり、視覚メディアとしてのひとつの矜恃の表れでもある。
なぜなら、目は視覚情報の伝達によって成り立つ映画というメディアの原理を、自らが拠って立つところのアイデンティティーを証し立てるものだからだ。ひとえに言って、映画は空間的に隔たった事物をそれに触れることなくして奪い取ってくるまなざしの特性に強く依存している。例えば、われわれが室内にいながらにして窓の向こうに見える山の木々や花々、鳥たちに手を触れることは不可能だが、目によってその光景を切り取り、味わうことなら容易に可能なのだ。目はまなざしの計算機によって距離を瞬時に微分し対象を圧縮変換するメディアであり、認識のモーターで駆動する擬似的・理性的な咀嚼器官なのだ。
対して、手の特性は、シミュレーショニズムをその原理とする目の反語として立ち現れる。
なぜなら、われわれは目に映ったもの、スクリーンの中に存在するものにじかに手を触れることはけっしてできないからだ。さらに言えば、映画には絵画と違って“本体”に当たるものがない。描かれる対象が現に描き込まれたところの支持体(絵画なら画布、カンバス)を内部に含み込まない幽霊のようなメディアなのだ。したがって、物質としての映画に触れ、それを所有することは誰にもできない。なるほど、アナログフィルムであればアルミ缶に格納されたセルロイド製のフィルムロールそのものを所持することはできようが、そこに絵画作品と同様のコレクションの喜び、観賞→所有→接触性の発生→直接支配の快楽は認められないだろう。
肉体を持たず、視覚を常に媒体として求めるがゆえの二重の接触不可能性。
これは映像メディアの構造的なウィークポイントだと言っていい。
したがって、映画が手指のクロースアップにこだわるのは、接触不可能性という自らの弱みを隠蔽するためであり、不可能な欲望にそれでも手を伸ばそうとする切実な欲求に支えられてのことなのだ。


・口、手と目のあいだに広がった裂け目


すると、映画における口の特性は、ちょうど目と手の中間にあると言えるかもしれない。
なぜなら、それは言葉と論理を使役する動物としての人間の例外性を象徴する理性的な器官であると同時に、他の動物と同じように食料を咀嚼し嚥下する極めて野性的な器官でもあるからだ。
実を言えば、本作が会話と食事の場面を反復するのは、人間と動物、理性と野性という二つの極に引き裂かれる器官としての口の存在性を問題化するためなのである。
そのことを直截に表すのが唇に裂け目のある女中カトレッテの存在だ。
風変わりな人々の中にあって彼女は唯一の常識人だと言えそうだが、ここでは明らかに異質な存在として登場してくる。屈託ないふるまいのゆえもあろうが(もしかすると軽度の知的障害を患っているのかもしれない)、その最大の理由は、彼女だけが「言葉を話せる」、他者に伝わるまっとうな言葉を持った人間だからではないだろうか?
ヴィトルドとフックスのために朝食を運んできた折、カトレッテは「レナ様はリュシアン様と結婚されたばかりで」「リュシアン様はハンサムで将来有望な建築家で」などと浮かれた調子でしゃべる。それを受けたヴィトルドとフックスは幾度も意味深な目配せを交わす。「だめだこいつ、話にならねえ」とばかりに。たしかにカトレッテの挙動はあまりに素朴で能天気なものだが、しかしその素朴さゆえに彼女の言葉には難解なところがいっさいなく誰に対しても伝わる簡潔な明瞭性を獲得し得ている。文学的な引用にまみれたヴィトルドの言葉や職場の愚痴を一方的にまくしたてるフックスの言葉の「伝わらなさ」とはまったく対照的に。つまり、われわれの知る一般的な世界とは逆に、カトレッテは「他者にとって理解可能な言葉を話す(その程度しか話せない)」という特性のために周囲から軽んじられているわけだ。
とはいえ、見ているこちら側からすれば映画の外部と内部を繋ぐ仲介役の存在はありがたく、またそれが“異物”として扱われている点を考えるに注目すべきものだ。
そう、実を言えば本作を読み解く最大の鍵はカトレッテに隠されている。彼女の存在は、映画の内外を橋渡しするだけではなく、後述する通り、映画の内部において二重化された世界を繋ぐ蝶番の役割を担っているからだ。
が、ここでは差し当たりカトレッテの異質さがどのような種類のものとして表象されているかを確認するに留めよう。民宿に泊まって一日目の朝、ヴィトルドが目覚める直前、夢の中でカトレッテの顔の超クロースアップを目撃する啓示めいた場面は見逃すべきではない。
見る者にトラウマレベルのビジュアルイメージを植え付けるショットにおいて、カトレッテの顔が完全な全正面、四分の四正面で捉えられている事実は重要だ。なぜなら、伝統的なキリスト教絵画において、人物の正面像は基本的に四分の三正面で描かれるものであり、四分の四正面、全正面で描かれる対象は神々や聖なる存在に限られていたからだ。
つまりカトレッテの隠された本質は、映画内部における取り扱われ方とは真逆の「唯一まともな言葉を操る聖なる存在」であるわけだ。こうした認識は大方の『COSMOS』解釈にパラダイムシフトをもたらすものであるに違いない。


・道化から予言者へ〜レオンの変身〜

さて、キリスト教的な象徴といえば、民宿の女主人の夫であるレオンの存在、とりわけその不可解な人格の変化はことのほか重要だ。
ただでさえ饒舌な登場人物たちのなかでももっともおしゃべりな男レオンは、聞き手の理解度を無視してもっぱら内容空疎な言語ゲームに淫しており(それが内容空疎だというのは、痩せ型の妻を「おでぶちゃん」と呼ぶ一事からも明らかだ。皮肉としても中途半端で笑えない言葉の使用法から推測するに、彼はおそらくある言葉が明示的な像を結びなにごとかを意味してしまわないよう、慎重に無意味を操っている)、そのため誰からもまともに相手にされていない。そして彼自身その「つたわらなさ」に満足し自閉しているように思える。
ところが、レナの犬が殺害され、自身発案のドライブ旅行に出立して以降、レオンの人格は不可解な変節を遂げるのだ。
凄惨な殺害現場を目撃した彼は「スズメの次は犬。この次はもっと大きな生き物が犠牲になるのではないか?」と予言めいたシリアスな言葉をヴィトルドに向かって口にする。
そして、隣村にたどり着いた途端、なぜか隠者めいた服装に身を包んで杖を持ち歩くようになり、金魚のフンのようにその背中にくっついて回るヴィトルドに向けてこう宣言する。
「わしはこの杖と一緒に巡礼の旅に出る」
なるほどその言葉には相変わらず論理的な一貫性がなく支離滅裂だが、しかし、その難解さの質は明らかに以前とは異なっている。
旅の以前には単に無意味であるために理解不能だった彼の言葉は、以後にはなにかしら語り得ぬもの、物事の背後に隠されている恐るべき真理を、それでもどうにか語り伝えようとするがゆえに、奇妙に重く、理解しがたいものとなってしまっているように感じられるのだ。端的に言って彼は「皆の知らないなにかを知っている」ように見える。
映画中で一番の道化のシリアスなトーンへの変節は、これまで物語の裏で進行していた不吉な事態がいよいよのっぴきならないところまで進行していることをわれわれに伝える。
隣村でのレオンの聖者のような出で立ち、そして彼が持ち歩く体を支えるにはいかにも頼りない木の棒、先端がY字型に分岐した小さな杖は、ヨルダン川でキリストを受洗し導きの師となる洗礼者ヨハネの持物(じもつ=attribute。キリスト教絵画において、その傍らに位置する人物が何者であるかを示すためのサイン。基本的には聖書やギリシア神話中の聖なる存在に対して使用される)である十字架型の小さな杖を連想させる。
そのものズバリとは言わないまでも、仮にレオンが洗礼者ヨハネのような聖なる存在として表象されているとすれば、「わしはこの杖と一緒に“巡礼”の旅に出る」という謎めいた言葉にも合点がいく。
すると、その背中にくっついて回るヴィトルドはイエス・キリストその人なのだろうか?
もっとも、白髪で髭をたくわえたのレオンの風貌は、若々しい美青年として描かれることの多いヨハネというより、旧約聖書中に登場するユダヤ教徒の救い主モーゼに近いものだが。
いずれにせよ、物語の第二部の幕開けとも言えそうなこの旅がなにかしら取り返しのつかぬ変容を映画中の世界にもたらし、それによって愚者が聖者に、道化が予言者へと変身する点は指摘していいだろう。
なによりも、レオンの不吉な予言〜「スズメの次は犬。この次はもっと大きな生き物が犠牲になるのではないか?」〜はクライマックスに至って見事に成就するのだから·····


・鏡の向こう


レオンが提案する隣村への小旅行は結果的に彼の予言を成就させ、取り返しのつかない事態(リュシアンの首吊り自殺)を生むことになる。
なぜだろうか?
強引に理屈をつけるなら、それはレオンの行動がこの世界の特殊な構成原理を暴き立てる神に弓引く暴挙であったためだろう。
結論から言おう。『COSMOS』を構成する二つの世界=民宿のあるこちら側と隣村のあるあちら側は、互いに鏡写しの関係にあるパラレルワールドになっている。
その根拠となるのが隣村のロッジに居住するジネットの存在だ。ジネットの容姿は食卓の話題に上るほど女中カトレッテと酷似しているが(同一の役者による一人二役)、彼女にはカトレッテを特徴付けている口唇亀裂が見られない。また周囲から軽蔑されているカトレッテとは反対に、ジネットは聡明な人柄からみなに愛されているようだ。
つまりジネットのキャラクターは有り得たもうひとつの世界線のカトレッテ、カトレッテのダブル(分身)なのだ。民宿のある世界では認められなかった彼女の美点、われわれが先に読み解いたような聖性(簡潔明瞭な言葉を操る素直で気立てのいい女性)が、鏡の向こう側で現にそうと認められた“正反対の”人格なのである。
ひとたびこのように考えてみると、先述した道化から予言者へというレオンの変化の謎も氷解する。
隣村で奇妙なふるまいに及ぶレオン。あれはレオンではなく、彼とは正反対の人格を持つ分身だったのではあるまいか?
無論これはオカルト的、文学的な解釈にほかならないが、舞台があちら側に移って以降映画のトーンがガラリと変わり、一挙に神秘的な気配を強めていくことは誰の目にも明らかだろう。人物の移動(旅)を挟んで物語が一部と二部に分かれているとすれば、神話的リアリズムの精妙なバランスを保持していた一部と比べ、二部ではもはや現実が完全に神話に呑み込まれてしまった世界が展開される。
こうしてわれわれは物語の末尾に位置する最大の謎に逢着することになる。
即ち、なぜリュシアンは死ななければならなかったのか?
隣村で迎えた夜。一寸先も定かやらぬ恐ろしげな森の闇の中、一行は灯りを手に手にキャンプ?に興じるが、そのさなか、ヴィトルドは木にロープをかけぶら下がったリュシアンの首吊り死体を発見する。
「この次はもっと大きな生き物が·····」
レオンの予言が図らずも成就してしまった形だ。
しかし、美しい女性を妻に迎えたばかりのハンサムで将来有望な青年がなぜよりによって自死を選ばねばならなかったのだろう?
それは、リュシアンが死に取り憑かれた陰鬱な青年ヴィトルドの分身であったためだ。
いかにも突拍子のない説ではあるが、そのように読める根拠はいくつかある。
カトレッテとレオンの例で見た通り、パラレルワールドの分身は本体とは正反対の特徴を持っている。
これはまさしくヴィトルドにとってのリュシアンの姿そのものではないだろうか?
率直に言って、リュシアンはヴィトルドが望むすべてのものを手にしている。浪人中の学生という不安定な身分であるヴィトルドとは異なり、新進気鋭の建築家という華々しい地位を。誰もが認める整った容姿と洗練された身振りを。そしてなによりも自身が欲望している対象であるレナを。さらには、ヴィトルドにとって唯一信頼できる友、ファッションアシスタントの同宿人フックスまでもがリュシアンに好意を寄せているさまが見て取れる。投宿してすぐフックスはヴィトルドがレナに恋するのと同じタイミングでリュシアンに関心を持ち「彼の手を見たかい?」とうっとりした様子でヴィトルドに語りかける。職場のいざこざを語る話にしてもその興味関心はもっぱら“男同士の関係”に向けられていることから、彼がゲイであると知れる。つまり、リュシアンはヴィトルドの友情が届く範囲すらも手中に収めているのだ。
おわかりだろう。リュシアンはヴィトルドが喉から手が出るほど欲していてかつ手に入れることができないすべての欲望を保持している。しかしその完璧さゆえ、不自然なまでに理想化されたリュシアンの姿は、まるで異世界転生(まさに!なのだが)系小説のチート級主人公のようで、冴えないオタクくんが頭の中で考え出した妄想に過ぎないように思える。そう、リュシアンが劇中ほとんど言葉を発さず奇妙にもその影が薄いのは、彼が過大な自意識を持て余すオタクくん・ヴィトルドの不可能な憧れが生んだ影=分身であるからなのだ。
レナへの想いを募らせるうち、ヴィトルドは様子がおかしくなっていき、遂にはレナの愛犬殺害へと至る(もっとも当の場面は映されておらず、思い込みの激しい青年の妄想とも読める)。法学部試験合格のプレッシャー、先の見えない焦り、そしてレナへの妄想的な執着心のゆえに、彼の人格が次第に分裂し再編成されていったとしてもむべからぬことだろう。結果としてわれわれの主人公はこの世界のタブーを犯すことになる。即ち、自分にないすべての要素を持っている半身=リュシアンの取り込みへと·····
ヴィトルドがリュシアンの人格と融合しその役割を兼ねるなら、もはやリュシアンはこの世界の余剰でしかなく、あちら側とこちら側との均衡を乱しかねない危険因子でしかなくなってしまう。
こうして世界のつじつま合わせの犠牲となって、リュシアンは死ぬ(神による“調整”を受ける)ことになるのだ。

・現実か、幻想か?〜二つの解釈を巡って〜

もとより多義的な象徴性を持つ本作に一本筋の通った解釈を示すことは不可能だが、以上を踏まえれば、リュシアンの死を巡って二通りの読みが可能になるだろう。
本作を形而上学的(メタフィジカル)な味付けが施されたSF作品として捉えるなら、パラレルワールドは現に存在しており、リュシアンの死は実際に起きた悲劇だということになる。
他方、本作を主人公ヴィトルドの心の動き、内面の変遷を物語化して描く心理劇(ニューロティック・スリラー)として読むなら、リュシアンの死はネガティブなものというよりむしろ孤独な青年が自身の欲望を知りそれとの融合・同一化を果たすポジティブな成長過程を描いたものと取ることができる。リュシアンの死体を発見するのがヴィトルドであるのはゆえなきことではないわけだ。この場合、すべてはヴィトルドの心の中で起きた出来事であるに過ぎず、パラレルワールドは現実には存在しないということになる。
原作が物語の主人公と同じ名を持つ作家ヴィトルド・ゴンブローヴィチによる自伝的な小説である点を鑑みれば後者の説が有力だと言えそうだが、映画の外側に位置する事実にわれわれが解釈を依存する必要は必ずしもないだろう。
いずれにせよ、『COSMOS』の世界は、分身ないし欲望の物象化であるリュシアンと融合したいというヴィトルドの過大な欲求によって破局を迎えた(反対物の一致によって完成した?)のだと言うことは可能だろう。
また、もし仮にわれわれの読み通り、リュシアン=ヴィトルドであり、レオンが洗礼者ヨハネに、ヴィトルドがイエス・キリストにそれぞれ見立てられているとするならば、当然リュシアン=キリストも成り立つことになり、磔刑を思わせる首吊り死体にも符号が得られる。
リュシアンの死体が発見されるキャンプのシーンが映画作品としての視認性を阻害するほど深々とした闇に覆われているのも当然だ。
聖書中の記述によれば、十字架上に磔にされたイエスが息絶える少し前、処刑場であるゴルゴタの丘はこの世の終わりのような真っ暗闇に包まれたのだから。

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイによる福音書27章45〜46節(新共同訳)



・エピローグ〜いきなり投げ込まれる体験のわからなさに向かって〜


さて、ここまで映画『COSMOS』についていくつかの可能な解釈を提示してきた。
キリスト教的な象徴、身体なき器官の遊戯、映像的表象としての口の特殊性(目と手による引き裂かれ)、人間存在への懐疑、SF的なパラレルワールド、主人公の分裂した内面を描くニューロティック・スリラー。などなど。
とはいえ、筆者の目論見は本作のはちきれんばかりに豊かな内容を解釈の鋏によって理解可能なサイズに切り詰めて見せることではない。むしろ反対に、その圧倒的なわからなさに向かって開かれることなのだ。
だが、それならなぜ批評などという無粋な営みに手を染めるのか?
それは、あるもののわからなさが真の魅力としてわれわれの前に現れるのは、わかることを徹底的に読み解いた後、それでもなお残る言語化不可能な部分との出会いを通じて、わからなさが確固たる神秘として新たに析出された時点に限ると信じているからである。
実を言えば、本項の執筆に当たって筆者は作品情報と先行解釈を確認するためにネットの海に潜ったのだが、驚くべきことに『COSMOS』についてなんらかの解釈を示した文章は皆無だった。それどころか登場人物を紹介する最低限の記述すら見当たらない(そのため、あらすじを書くことすら困難だった!それなりに長く批評を続けてきて初めての経験だ)。本作の内容に触れた文章のほとんどが判で押したように「わからない」「難解」「哲学的」「解釈を許容するタイプの作品ではない」などの雑駁な感想に終始していたのだ。
無論、これは筆者のリサーチ不足のせいもあろうし、「解釈を許容するタイプの作品ではない」という意見には大いに首肯すべき点もある。
しかし、である。
このポーランドの鬼才が遺した偉大な作品に対してパッと目につく範囲でただの一件もまともな批評が見当たらないというのはどうだろう?
私見によれば、こうした情けない現状は、現在の映画批評における批評圏(批評がその対象とする地図のようなもの)の偏りを象徴するとともに、アンジェイ・ズラウスキーという映画史上最大の天才が不当に軽視されほとんど黙殺されている所以を明らかにしているように思われる。
例えばタルコフスキーやベルイマンといったシネフィル好みの監督たちに比べ、ズラウスキーは映画批評において圧倒的に言及・参照される機会が少ない。その理由は明らかで、宗教的な隠喩や絵画的な象徴を多く用いるゆえに「難解」な作風を持つ前者に比べ、ズラウスキーの作品はただ単純に、パワフルかつアナーキーに「わからない」ものであるからだ。
だが実のところ、「難解」な作品のわからなさの要因のほとんどは「本来AであるものをBとして語っている」せいであるに過ぎない。したがってAをBに変換している原理、暗号を解読するためのコードさえ手に入れれば、必然的に内容を読み解くことができる。そのため、一般的に「難解」とされる作品は解読コード(象徴読解の手続きやフェミニズム理論、精神分析理論など)を熟知している批評家にとっては逆に最も与しやすい対象となるわけだ。
ところが「わからない」ものにあっては、AがBに変換されている原理も、そもそも本当に変換されているのかどうかすらも曖昧であるため、内容を読み解こうにも取っかかりを掴むことができない。およそ難解さとは無縁のストレートな「わからなさ」を誇るズラウスキー作品に対する批評が少なく、その偉大さに比して映画史における位置付けが定まっていないのはそのためだれう。
しかし、本当にそれでいいのだろうか?あらかじめ批評可能なものだけを批評して済ますのは批評家の怠慢ではないのか?
そもそも、誰かがある作品についての解釈を示し「わかる」部分を掬い取らなければ、その「わからなさ」、言語化不可能な作品の核のようなものにわれわれが手を伸ばすこともまた不可能になってしまう。なによりも、優れた作家の仕事を「わからない」という一事を持って葬り去ってしまっていいものか?
それは端的に言って批評の敗北であり、作家や作品軽視の傲慢な態度であるにほかならない。
とまあざっとこのような思いから本稿は執筆された。本稿が、読者が本作をより深く味わい、「わかる」(作品の意識)を通じて「わからない」(作品の無意識)へと至るためのささやかな一助となれば幸いである。
最後に、筆者の思うズラウスキーの凄さ、映画研究がこれまで獲得してきた批評軸を遥かに逸脱する圧倒的な「わからなさ」の魅力について触れておこう。
いったい、ズラウスキーの映画のなにが「わからない」のか?
そう問われれば「全部」と答えるほかないのだが(笑)、ひとつには映画が始まった瞬間の神秘的・オカルト的な感覚の立ち上がりを挙げることができる。
ズラウスキーの作品を見る時、筆者はいつも冒頭からいきなり映画の世界の中に投げ込まれるような奇妙な感覚を覚える。いやむしろ、「既に映画の世界の中にわたしがいたことに唐突に気付かされるような感覚」とでも言った方が正確か。
それは『COSMOS』においても例外ではないのだが、特に顕著なのがソフィー・マルソーが体当たりの演技で魅せる『狂気の愛』である。
どう言ったらいいのか、始まった瞬間「あ、やばい。もう取り返しがつかない逃げられないどうしようこうなったら流れに身を任せて楽しむしかない!」というやけくそな気分にさせられるのだ(笑)
逆に言えばズラウスキー映画における“画面”はほとんど芸術史全体を見渡しても例外的と言い得るほどの圧倒的な虚構世界への没入力を誇っているわけで、「いったいこれはなんなのだろう?」と思わず頭を抱えてしまわざるを得ない。
浅学な筆者には映画史においてこれと比肩する作品が見当たらず、音楽分野に例を求めるほかないのだが、ズラウスキー作品に特有の“いきなり世界に投げ込まれる感覚”に近いものといえば、プロデューサーのテオ・マセロの魔術的編集によってまさに演奏の途中からアルバムがスタートするマイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』と、それと似たような成立過程を持ちさらに瞑想的でアナーキーなフレーバーが漂うCANの名作『Tago Mago』くらいだろうか。
だが、ズラウスキー作品の誘引力はこれらより遥かに強力なものだ。そこにはおそらく映画メディアに特有の身体部位や官能を切り取る力、手、目、口の特殊な皮膚感覚の伝染力が関係しているに違いない。本稿における手探りの記述は音楽メディアにはない映像とまなざしの秘密に微力ながら接近しようと試みたドキュメントでもある。
「難解」から「わからない」へと矛先を転じて後、批評が最終的に目指すべきは、「わかる」の余剰として新たに析出された「わからなさ」へと全身を開きつつ、それと取っ組み合って“フィクションの中にいきなり投げ込まれる体験”そのものに拮抗し得る言葉を手に入れることだろう。
それは即ち、作品と作家を通して人間存在のわからなさを記述するのと同等の不可能な試みであり、筆者が目標とするひとつの到達点でもある。
映画は、批評は、言葉は、断じてズラウスキーと『COSMOS』のわからなさから逃げるべきではないのだ。

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