見出し画像

↑これ僕です。

皆さん、初めまして!わざわざお越しくださいましてありがとうございます。わがことのリレー投稿4人目は僕、湯川致光(ゆかわ よしあき)です。団体内では、とりあえず先頭に立って、戦で真っ先に死亡フラグが立つ「足軽」を担っております。個人の自己紹介は↓↓をご参照ください。息継ぎなしで読むことができます。

さて、第1回目のテーマは「自己紹介」なのですが、もう↑↑で完了しているので、ここで終わっても良いかなと思っています。ただ、ここで終わると、スクロールなしの記事になりメンバーから叩かれそうなので、僕のバックグラウンドについて少しだけお話しさせてください。僕がこのNPO法人わがことで活動している理由の1つになります。(※東日本大震災のことについて書いています。当事者として感じたことを少しポップに書いております。気分が悪くなる方はここでご遠慮いただければ幸いです。)

画像1


2011年3月11日、僕は仙台にいました。大学院の自習室で公務員試験勉強をしていたのです。嘘です、試験勉強に疲れ、NHKオンデマンドで朝ドラ「てっぱん」を見て感動していました。

しかし、感動していたその時。その瞬間は訪れました。

「お?」「おお?」「おおおおおおおおお!!!!!!!」
咄嗟に机の下に潜り、後輩と安否を確かめ合いました。

湯「なかなかのアトラクションだったな。」
後「そうすね。フジヤマ級でしたね。」
湯「はははwww」

そう、我々は「割と大きめの地震があった」としか認識していなかったのです。ちなみに、その日は合コンが設定されており、まだ合コンがあると信じて疑わなかったのを覚えています。

しかし、思い返せば、前兆がありました。

巨大な地震が起きる5日前。東北地方を中心とした「全国的にニュースになるような地震」があったのです。なぜ覚えているのかと言うと、大学時代の友人(その時は島根県在住)がわざわざメールをくれていたからです。

友「今、東北の方で結構大きめの地震あったけど大丈夫?」
湯「え、地震あった?気づかなかったよ。」

その友人はNHKに勤めていて、災害関連の情報をすぐに得られる仕事だったことから、気を遣って連絡してくれたようでした。ただ、僕はそのとき歩いていたため気づかなかったのです。

あれが前兆だったのか。
そう思い至ったその後は、情報がドンドン入ってきて、大学院は閉鎖、仙台より東側(閖上地区)は津波により被害、福島第一原発が・・・そして女川原発も怪しい・・・。大学院から勉強道具一式を持ち帰り、一旦湯川家に大学院のみんなで避難することとなりました。そこからは、大学院の仲間で情報収集班、食料調達班などに分かれて、1週間凌いだことを覚えています。避難所生活も経験しました。アルファ米も食べました。

Mission「総員、仙台を脱出せよ」

さて、1週間経っても、状況は改善されることはなく、短期間凌ぐことはできても長期戦になると非常に厳しいことが分かってきました。また、この時、食料不足も大きな問題でした。物流が遮断されていたので、なかなか物資が入ってこなかったのです。そのときの風潮として「被災地から出られるひとは出よう」となっていたこともあって、大学院の仲間と「実家に戻ろう」とルート探しに奔走しました。
しかし、仙台を脱出する方法は限られていることが分かりました(下図参照)。

打ち合わせメモ

ルート①東北新幹線
普段、実家に帰る時に使う通常のルートです。しかし、ご存知の通り、東北新幹線は地震の影響で運休してしまいました。

ルート②仙台空港
ここもご存知の通り、津波被害を大きく受けた場所であり、当面の間利用ができる状況ではありませんでした。

ルート③いわて花巻空港
南に行けないのであれば、一旦北に逃げてから脱出しよう、という甘い考えは一瞬のうちに消え去りました。震災後、いわて花巻空港は政府が災害拠点空港に指定し、民間利用ができなくなっていたのです。

ルート④山形空港
そう、我々に残されたのは山形空港しかなかったのです。バスで奥羽山脈を越え、山形市内に行き、山形空港に向かう方法です。気持ちは「本能寺の変」の後の徳川家康による伊賀越えでございます。

さはさりながら、ルート④で山形に着き、ホテルをみんなで探し、行き着いたのはスーパーホテル。そこで食べたおにぎり、久しぶりのお風呂は一生忘れることはないでしょう。※仙台では、電気・水道・ガスがすべて止まっていました。

震災の後に

1ヶ月後、東北新幹線は復旧し僕が住んでいたエリアのインフラも復旧し、社会生活ができることになったので、仙台に戻りました。就職活動も再開し、なんとか神奈川県庁に拾ってもらいました。その後、僕が取り組んだのが、震災体験や復興への声を集めた記録集の作成でした。

画像3

画像4


仙台市宮城野区の職員の方やNPO職員の方、福祉職の方や地元ケーブルテレビの方など、多方面で活動されているメンバーで、少しずつ被災地の現場の声を拾って冊子にしました。その中でも、若い児童館館長さんへ話を聞きに行ったことをよく覚えています。

「児童館が拠点になり炊き出しや支援物資の配布を行なったんです。ただ、避難所に行けないひとも中にはいます。そういった方々には、児童館と繋がりのある民生委員さんを通じて、直接配布しました。中継地点のような役割を果たせたと思います。」

児童館の職員さん、民生委員さんなど、こうした方々が地域を支えている。そう痛感しました。

有事はいつでもそこに

少し長くなりました。そろそろ終わりたいと思います。いや、ここまで読んでいただいているということは「もっと書けよ」と思ってくださっているのかもしれません。ありがたいことです。ありがたいことですが、残念ながらもうすでに着地に向かっております。スラムダンクで言えば、流川が桜木にパスをする段階です。最後は、この時期になぜこのテーマで書いたのかをお話ししたいと思います。

今(2020年4月24日現在)、日本を含む世界は新型コロナウイルスにより多大な影響を受けています。識者によれば、アフターコロナは「元どおり」ではなく、「新しい何か」になっているとのことです。

なぜそうなるのでしょう。

東日本大震災後、「震災が人生のターニングポイントになった」という方によく出会いました。それは震災の時に東京にいた方に多かったです。ただ、僕は被災地にいて震災後も現地にいましたが、そこまでの感覚にはなりませんでした。なぜでしょうか。仮説ですが、きっと東京のほうが「何かが崩れる音」が聞こえたのだと思います。それは建物や塀が崩れるなどの物理的な音ではなく「価値観が崩れる音」だったのだと思います。

我々は、あまりにも多くの生活に必要なことを「行政」「市場」という比較的新しい「人為的な」システムに依存してきたのかもしれません。その傾向は、地方より東京の方が強いのだと思います。震災時、東京ではスーパーやコンビニから食料が消え、電気もなくなりました。その全てを行政が配給できるわけもなく、生活インフラが根底から崩れたのです。

スクリーンショット 2020-04-15 12.03.55

我々は、「コミュニティ」をこれまで非常に軽視してきたのだと思います。もっと言えば、日本の公共政策の中で、コミュニティについて重要視されてこなかったのだと思います(民主党政権時に「新しい公共」円卓会議が設置されたことがエポックメイキングでした)。そうですよね、日本全体でコミュニティが醸成されてしまったら、必要なサービスを市場から調達しなくなり、GDPが下がりますもんね。

戯言はさておき、今回の新型コロナウイルスの影響により、きっと東日本大震災よりも大きな価値観の変化があると思っています。今、本当に厳しい状況の方は多いと思います。僕自身も起業している身です。大変です。闇の中を這いずり回る毎日です。

話が逸れに逸れました。なぜ東日本大震災をテーマにしたのか、でした。

今回の新型コロナウイルスも、東日本大震災も、同じように有事です。新型コロナウイルスが自然災害に分類されるのかは専門家に判断を委ねたいと思いますが、日本は自然災害大国なのです。そのような有事頻発国家は、常に「備えておく」必要があると思うのです。

今回の騒動で、マスクが市場から供給されなくなって、ついには政府が時間と税金をかけて配布し始めました。一方で、お互いにマスクの作り方を教わりあうことで、手に入れている地域もあります。市場でも行政でもなく、地域の繋がり(コミュニティ)で必要なものを手に入れているのです。教育についても、インターネットを介した無料講座が開講されています。Twitterでは、大学の先生が無料で講座を開いています。

アフターコロナの社会は、「コミュニティの醸成」を最上位の政策目標にするべきだと思うのです。東日本大震災の時でも、新型コロナウイルスの時でも、ひとをケアしているのはひとでした。そこでは、お金を介さない人間同士の貸し借りが行われています。それが「新しい社会」の側面を創っていくのだと強く感じています。

朝の連続テレビ小説「てっぱん」の名言

最後に、と言っておきながら、全然最後に、ではなかったことをここで謝ります。大変申し訳ありませんでした。でも、スラムダンクも31巻で終わってから、「あれから10日後」ってありましたよね。それです。

本当に最後です。

2011年3月11日、僕は試験勉強をせず、朝の連続テレビ小説「てっぱん」を見ていました。詳しい内容は省略しますが、瀧本美織が演じる主人公・村上あかりの成長を描く庶民派ドラマです。養子縁組で育てられたあかりは、広島の高校を卒業後、大阪で就職するも失職、祖母と軋轢を起こしながらも「広島のお好み焼き屋」を開業してたくましく生きていくというヒューマンドラマです。これだけ見ると「こいつほんま大丈夫か」と心配したくなりますが、あかりが成長していく中で、あかりのメンター的なポジションである祖母が最後に言うセリフが秀逸なのです。

「あかりは、人間関係の貸し借りがほんま上手や」

わかります?わかりますよね?言葉を選ばずに発言することをお許しいただければ、学歴もなければこれといった才覚が見えない主人公は「人間関係の貸し借り」で生きているのです。さすが、NHK大阪がつくった朝ドラです。これがNHK東京だとまた違ったテイストになるのだと想像したり。

小さくも、緩やかで、適度な信頼関係のネットワーク。
こういうワードがアフターコロナの社会では、キーワードになるのではないでしょうか。

最後の最後になりましたが、僕たちわがことは、名もなき地域の担い手を発掘し、サポートし、一緒に地域を創っていく活動をしています。いざという時に、お互い様、手と手を取り合う、そんな社会づくりのお手伝いができるように、少しずつ活動していきたいと思っています。

最後までお読みくださりありがとうございました。

それではまた会う日まで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?