見出し画像

「窓」の内と外

3巡目、回を追うごとに、何とも言えない圧の高まりを感じている、わがこと癒し担当の村上です。

ここ3カ月くらい、牛にひかれて善光寺ではなく、家内に誘われて、毎日早朝4時半頃から小一時間ほど散歩をしています。
まだ暗い中、ぽつんぽつんと点る窓の明かりを見ていると、幼い頃散々遊びまわって、夕焼け空の下を「今夜のおかずは何だろう」などと考えながら家路を急いでいた時の情景が浮かんできました。

その時分から何となく「窓」というものに対して、ぼんやりとした興味というか関心があります。(決して、「覗き」とかいう類の趣味があるわけではありません。)
知らない町を歩いているとき、車の助手席からキョロキョロしているときなど、鎧戸の付いた窓や趣のある窓なんかが目に付き、自然と興味がそちらに向かってしまいます。文芸やアートにおいても、無意識のうちに窓センサーが働いていたりします。

例えば文学。
梶井基次郎の「檸檬」という作品の中に、『通りすがりの路地から灯かりの点っていた本屋を覗き込むと棚の上にポツンと黄色いレモンが置かれていた』というような記述があった、と思っていたのですが、今回のnoteを書くに当たって改めて読み返してみると、随分と記憶と違っていて少々落胆しました。

もう一つはアート。
有名な画家のトーマス・マックナイトの「窓」シリーズ。(勝手に名付けている)窓から広がる開放的で素晴らしい眺め。本物は勿論無理ですが、DVD画集を買うほど好きなアーティストです。

画像2

今回は、そんな「窓」について書いてみようと思います。

「窓」は、内と外、向こう側とこちら側、二つの世界の接点、入り口であり出口です。「扉」と違うのは、人や物が出入りしないことです。(時々出入りする人がいますが、それは例外ですよね)
よく「窓辺にもたれて物思いに耽る…」という表現をするけれど、窓は、何かしら物思う状態--自分の意識を飛ばしやすいシチュエーションに誘う装置じゃないかと思っています。
現実世界の「窓」は、区切られた空間(建物)に設けられているため、普通は、その空間の中が「内」で、そうでない方、区切られていない方が「外」、と認識されます。
一方で、空想世界における「窓」は、自分という意識がどちら側にあるかによって、内と外、向こう側とこちら側を自由に入れ替えることが可能です。場合によっては、そういう区別さえない、混とんとした状態も考えられますが・・・。

自分が外を見ている、自分が外から覗かれている、自分が中を覗いている、自分が中から見られている。

さて、ここで「わがこと」と「窓」を考えてみましょう。
わがことに集まった、個性を持ったメンバーは、一人ひとり自分の窓を持っていて、わがことの中のそれぞれ好きな場所に取り付けています。ある人は、誰かの窓の中にちゃっかりと窓を置いているし、またある人は、窓枠のない窓かどうかも分からない穴?を開け放しにしている。
これって、ほぼほぼ多様性と同義なんだろうけど、自分自身の多様性に気付く、多層性を身に付けるという側面もあるような気がしています。至る所に窓が開いていることによって、意外な風景がひろがっていたりして、結果的に内と外の見え方が変わる。風通しの良い関係がそこにある。
WINDOWの語源も「WIND(風)」と「OW(目)」らしいので、なるほどね。

窓つながりでもうひとつ。
自己分析に使用する心理学モデルの一つに「ジョハリの窓」というのがあります。「ジョハリの窓」を用いることで、他者とのコミュニケーションにおいて自分自身をどれだけ表現しているか、という視点で現在の自分の姿を理解することができ、対人関係の進展や自己理解、ビジネスにおける能力開発にも効果を発揮します。
「ジョハリの窓」は、自分自身の特性を4つの「窓」に分類したものです。自分による自分の分析結果と他人による自分御分析結果を統合して該当する窓に当てはめていくことで完成させます。
自分も他人も知っている性質は解放(open)、他人は知らないが自分は知っている性質は秘密(hidden)、自分は気づいていないが他人は知っている性質は盲点(blind)、自分も他人も知らない性質は未知(unknown)です。開放の窓を拡げ、未知の窓を小さくしていくのが良いとされています。

画像3

(↑この図はこちらからお借りしました。)

ここは解説コーナーでも何でもないので、これ以上内容には触れませんが、様々な「窓」によって自己を拡げ、柔らかなアンテナを磨きたいものです。

最後に、これからもわがことのメンバー一人ひとりが存在感を放つように祈りつつ、ツヤッツヤの檸檬を1個置いときます。

画像4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?