20191104_名古屋城

名古屋城にあるおみやげは『金のしゃちほこ』、首里城は『琉球』だったんだけどねぇ…

積極的にゲームをする父親ではなかったですけれど、珍しく親父が買ってきたゲームがあります。それが、『ドラゴンクエスト』でした。街の人に話を聞いて物語を進め、武器や防具といった装備を整え、モンスターに立ち向かい、松明をつけないと明るくならない真っ暗な洞窟に入っていく、そういった様々な要素が、小学1年生の僕にはハードルが高くて、親父がゲームしているのを横で見ていました。そういう体験があったからでしょうか、僕にとって『ドラゴンクエスト』というゲームは、大人がやるような、少し特別な印象を持ち続けているのです。

最近、スマホのゲームアプリで、『ドラゴンクエストウォーク』がリリースされました。地図上に表示されている目的地を設定して、そこまで歩いて行ってアイテムをもらう、物語を進める、イベントに参加する、そういう遊びをするゲームになります。ドラクエに身体が反応してしまう僕は、リリースと同時にダウンロードさせてもらって、スマホを持って歩くときは、最低でも、アプリを起動させてレベルを上げをするくらいには、ハマらせてもらってるのです。

このゲームには、『おみやげ』という、ある場所に行かないと発生しない、地域限定のイベントがあります。どちらかというとインドアな人間なので、週末になると家で過ごすことが多くなります。つまり、歩いて楽しむゲームのはずなのですが、ゲームを楽しんでる範囲というのが、家から会社に向かうまでの通勤圏内という、なんとも寂しい楽しみ方になっていて、この状況はまずい、このゲームを遊びきれてないと感じたものですから、歩くきっかけにと、週末は出来るだけイベントの発生する場所に行くことにしているのです。

先日、愛知県のおみやげ出現場所である『名古屋城』に行ってきたのですけれど、愛知県に7年住んでいたこともある僕としては、久しぶりの名古屋城に懐かしさを覚えるとともに、無駄のないスッとした姿に、改めて名古屋城の立派さと美しさを感じ、名古屋のシンボルであると痛感するのでした。

20191104_名古屋城

どの本に書いてあったのか忘れてしまったのですが、まだ日本が封建社会であった頃、こんなお話があったそうです。ある武家の家で厄介になっている浪人がいたのですが、厄介になっている家の手伝いがうまく出来ず、ただ飯を食らうだけの穀潰(ごくつぶ)しとなっていました。ただただご飯を食べさせている状況に、家族は浪人を追い出して欲しいと、家長である主人に頼みますけれど、主人はその願いを断っていたそうです。そんな状況を申し訳なく感じていた浪人は、「この恩はいつか返す」と、主人と約束をしていました。

ある日、厄介になっている家が火事になり、命からがら、家の人たちは燃えさかる家から脱出するのでした。主人は、家の者たちが無事であることを確認すると、家の中にある家系図だけは燃やせられないと、まわりの制止を振り切る勢いで、燃えさかる家に飛び込もうとしていました。そんな主人の姿を見た浪人は、恩を返せるチャンスだと、主人に「家系図のことは任せろ」と言い、燃えさかる家に飛び込んでいったのでした。

火事も落ち着き、家の者たちは、炭となった家から使えるものを掘り出していると、火事の中、家に飛び込んでいった浪人が、真っ黒な死体となって出てきました。主人は、浪人を不憫に思い、供養をしてやらなければと浪人に近づくと、浪人の姿が切腹をするような、くの字に折れ曲がった姿で燃えていることに気づきます。もしやと思った主人は、折れ曲がった浪人の身体を起こし、腹の中を探ってみると、家系図が出てきたそうです。返しきれないほどの恩を受けた主人と家の者たちは、浪人に深く感謝し、墓を建てたと言います。

20191104_名古屋城を外堀から見る

今の私は、父がいて、母がいて、その父の父、父の母、母の父、母の母…というように、脈々とした流れがあって、私が存在することになっています。けれど、家系図を持っていない私には、私のルーツを証明する手立ては記憶しかありません。良い意味で捉えれば、「何者にでもなれる私」ですが、それは、「何者でもない私」と同義です。「何者でもない私」は、まずはまわりに自分が害を及ぼす人間でないことを証明し、身の安全を確保した上で、自分がこれから何をするのか、何ができるのかを探っていかなくてはなりません。

昔の日本で考えれば、家を守るということは、自分の存在を守ることであり、生活を守ることに直結しています。個人の命よりも家を第一に考えた日本のシステムは、命を守ることにおいて、非常に効率の良いシステムだと考えられるのではないでしょうか。また、生きることでウダウダと悩まなくて良いアイデンティティの構築においても、効率的に機能していたのかもしれません。

名古屋城は、1612年に築城されています。1603年に江戸幕府を開いてから間もなく、といった印象さえ受けます。おそらく、徳川家康が天下をとったわけですから、不満を持った豊臣側から戦が起きてしまった場合、江戸までの進行を止める一つの要塞として築城したのが、名古屋城と考えられるのではないでしょうか。また、今まで使用していたお城(清州)では、交通の便が悪いということもあったようで、城下町を作り直すという意味においても、名古屋の始まるシンボルと言っても過言ではないように思います。

ほとんどの人が農民であった頃は、ほとんどの人に名古屋城なんて関係ないのかもしれませんけれど、時は過ぎ、今では名古屋に住む多くの人が、名古屋城を見上げることになっていることでしょう。それは、生まれる前から変わらない景色であり、自分の中にある身体の一部と言って良いほど、大切な景色になっているように思うのです。僕は、久しぶりに名古屋城を見上げて、その力があることを、まざまざと見せつけられたように思うのです。

つい先日、沖縄県にある首里城が火災に遭うという悲劇が起こりました。沖縄県の人たちにとってみれば、身体の一部を持っていかれたような喪失感を覚える方もいらっしゃるのではないでしょうか。生活に密着した景色であればある程、その喪失感を凄まじいものでしょう。一日でも早く、元の姿に戻す決定がされ、一日でも早い復興の動きが始まること、一日も早い首里城の復活を心から願っております。

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