創作童話「涙を流しに」
これはもう何年も昔、私がこの町に越してきてすぐのことです。
この町の近くに巷では有名な彫刻家が住んでいる、ということは、私も以前から聞いていました。彼の彫刻は、その瑞々しい感性と繊細さが人気となり、美術館や町の広場などにそれは立派に飾られていましたから、そんな噂に町が浮足立つのも無理ないでしょう。
程なくして、私は実際に彼と知り合いました。川辺の道で粘土を運ぶ荷車がぬかるみにはまってしまったところを、偶然通りかかった私が助けたのです。そして、町に流れる川を少し遡ったところにある彼の家まで、一緒に荷車を押していきました。
驚くことに、彼は私より十歳近く若い青年でした。ですが、その華奢な体やさわやかな微笑みを見ていると、彼があの立派な彫刻を作ったということは、確かに納得がいくように思えました。
その出来事以来、私と彼は少しずつ親しくなっていきました。彼は私をアトリエに案内してくれましたし、私も彼を家に招き、趣味で集めている絵を見せたりしました。彼のアトリエは、粘土や丸太や金属がいろいろなところに転がっていて、その風景の中に作りかけの作品が既に輝きをもって置かれていました。
彼は口数が多い方ではない人物でしたが、それでも常に頭の中にたくさんの色や形や言葉が渦巻いているのが、その少ない言葉の端々から伝わってきました。そして何よりも、彼はいつでも清流のように明るく、しなやかな笑顔をたたえていたのです。
いつの間にか、私は彼のことを山に住む精霊か何かのように感じはじめていました。もしかしたら、彼のあの透きとおった青い瞳が、そんな幻想を助けていたのかもしれません。
季節がいくつか進み、冷たい風が強く吹きつける時期になりました。いつものようにアトリエを訪問しようと私が川辺の道を歩いていると、すぐそばの茂みに一枚の薄い紙が引っかかっているのを見つけました。明らかに、茂みの向こうの河原から飛ばされてきた様子です。手に取って確かめてみると、そこには薄い青のインクで、泣いている人間の顔のような絵が描かれていました。
私は好奇心に駆られ、茂みをかき分けて河原へ出ました。そこはあの彫刻家の家の裏手で、水辺には彼の姿が見えました。私は静かに彼に近づいていきましたが、跪くようにして水面を覗き込む彼が何をしているのか、なんとなくおそろしいような気分になっていました。
私は思い切って彼の背中に声をかけました。途端に彼はこちらを振り返り、伏せていた目を丸く見開きました。同時に、彼の両手から、先ほど私が拾ったのと同じたくさんの絵が、目の前の水の中に放たれました。
「何をしていたのですか」
私が努めて柔らかい声で訊くと、彼はほんの少し口元を歪めたあと、また目を伏せ、黙り込んでしまいました。
「先ほど、この絵を道端で見つけたのですが」
「あぁ、それは僕が描いたのです。ここに持ってきてすぐに一枚飛ばされてしまった」
早口な彼は、普段と幾分印象が違っていました。
「絵もお描きになるのですね」
「はい。仕事のために彫刻は学んできましたが、本当は絵も同じくらい好きなのです」
「それで、この絵を何故川に流すのですか」
彼はまたぐっと息を吞み、そして、私の方を見上げました。その途端、青い瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていきました。
「僕は随分前から、仕事に行き詰まったり、友人との仲がうまくいかなかったり、そうでなくてもどうしても気分が落ち込んだときに、涙を流す人の絵を描いていました。それは僕自身の肖像ではないし、ほかの誰の肖像でもありません。ただ、泣いている人間、というそれだけです。この絵を描きながらであれば、僕は心置きなく涙を流すことができるのです。家の奥に少しずつ溜まっていくこの絵のことは、長らく自分だけの秘密にしてきました。ですが、ここに引っ越してきてすぐに、これを家の裏の川に流してみたらどうか、と思い立ったのです。それで、水によく溶ける薄い紙に花から作った絵の具で絵を描き、流してみました。涙の絵が川面に溶けていく様子はとても美しくて、僕の心はいつになく落ち着きました。でも同時に、とても虚しくもなってしまうのです。僕の涙は、誰にも知られることなく、ただ水に溶けてしまえば良いものだ、なんて、考えてしまうと……」
彼はそのあとの言葉を必死に飲み込もうとしているようでした。私は思わず、彼の背中にそっと触れ、呟きました。
「寂しい、のですか」
彼は私を見上げ、小さく頷きました。
彼は涙を流し続けました。昼下がりに始まった会話は、静かな嗚咽だけを残して、夕暮れまで続きました。青い瞳から零れ落ちる雫は、まるで雪解け水のように、河原を濡らし、川に混ざって流れていきました。私は彼の背中をさすりながら、目の前にいる一人の人間の半生に思いを巡らせました。考えれば考えるほど、彼がどれだけその本心を外に出さないよう用心してきたのか、見えてくるようでした。
「どうして僕は、あなたに打ち明けてしまったのでしょう」
「きっとただの偶然ですよ」
「それでも、あなたで良かった」
彼は最後に、ほんの少しだけ、幼い笑顔を私に向けたのでした。
それからしばらく経って私が再び彼の元を訪ねると、アトリエはすっかりただの空き家になっていました。彼が今どこで何をしているのか、私には知る術もありません。近所では、夜中に川へ入っていく人影を見かけただとか、家の方からピストルの音がしただとか、そんな噂も流れる始末です。
どちらにしろ、私は彼のことが今でも少し気がかりです。ですが同時に、いつか彼はまた私の元に姿を見せるだろう、という考えもあります。
最近になって、私の家に差出人不明の葉書が時折届くようになりました。そこに描かれている様々な人物の優しい表情が、私にはどうしても、あの愛すべき彫刻家のものに見えてしまうのです。
(見出し画像は、以前訪れたイギリス海岸から望む北上川。)
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