見出し画像

マシュマロへの回答:自分とキャラクターの境界線

画像1

メタな話ですが、キャラクター系Vtuberのワダチさんに話を聞いてみたいと思ったので送ります。 Vtuberという存在を運用していると、自分の自我と「キャラクターとしてのVtuber」という立ち位置がぐちゃぐちゃになって軸がブレていくような感覚に陥ることがあります。 最初は子供の成長を喜ぶように運用していたはずが、運用者の自我との境界線がブレてくるという感覚と言ったらいいでしょうか。 自分の創作キャラクターであるVの発言は果たして自分の思考なのか、Vtuberへの評価は果たして自分への評価なのか? 自分とVのキャラクターとの間に溝があるような感覚といえばいいのでしょうか。 ワダチさんはキャラクターと創作者の間に、そういった溝のようなものが生まれた時にはどう落としどころを見つけていくのが良いと思いますか? 曖昧な質問になってしまいましたが、何かしらご意見が頂けたらうれしいです。 | マシュマロ匿名のメッセージを受け付けています。t.co

おそらく質問者さんは「自分とキャラクターはまったく別の存在であり、その間には明確な境界線が引ける」と認識されているのだと思われます。その引けるはずの境界線をどこに引いたらいいか分からなくて困っているんですよね?
その認識から改めてみましょう。「自分とキャラクターはまったく別の存在というわけでもありません」

ワダチの動画 #04 でご紹介した大塚英志さんの本にはこうあります。

『…「キャラクターをつくる」というものの根底には「私を表現する」という問題が潜んでいる、ということです。…ぼくは「私小説」の「私を書くこと」と、まんがやゲームの「キャラクターをつくること」の間に本質的な差はない、と考えます。…ぼくたちのつくるキャラクターは「商品」としてあることは不可避です。しかし、その「商品」性をきちんと含んだ上で、キャラクターのオリジナリティや個性を決定付けるのはつくり手の「私」です。』

大塚英志(2014)『キャラクターメーカー:6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』星海社 p17より引用

創作物であるキャラクターは多かれ少なかれ、創作者の思想や嗜好を含み、それらをもとに行動します。それはなんらおかしなことではなく、むしろキャラクターの魅力的な個性となるのです。
このような状態は言わばグラデーションで、赤と青のグラデーション上に境界線が引けないように、創作者とキャラクターの間にもそう簡単に境界線は引けないのです。

「では、自分のVの発言は、Vへの評価は、一体どう解釈すればいいのか?」
…確かに、こんな答えだと余計に混乱してしまうかもしれませんね。

ワダチは動画 #08 で、創作者とキャラクターの関係を「二人三脚」に例えました。時にもつれ時に転びながら、お互いを支え一歩ずつ前に進む。泥臭いけど、これが健全なんじゃないかな、というのがワダチの考えです。

ひとつだけアドバイスを贈るとしたら「けしてキャラクターを出し抜かない」ことです。再び大塚さんの本より。

『「本当の私」なんてそもそも存在しない、とまではいいませんし、その人の心の奥底とキャラクターは当然、つながっています。しかし、一回、それを「キャラクター」として客体視するためには直接的に「私」をカミングアウトしない技術が必要です。』

大塚英志(2014)『キャラクターメーカー:6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』星海社 p67より引用

ご自分のキャラクターのことを考えられるあなたは大変思慮深い方です。あなたのキャラクターに代わって感謝申し上げます。ありがとう。

あ、最後にいいですか。ワダチはVTuberじゃないんですよ~ゥ!🤣💦(ここでワイプが縮まり暗転)