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マシュマロへの回答:VTuberの中に何を見たいか?

質問というか、面倒臭い話題提供です。方針と違うタイプの話題であれば無かったことにして下さい。 何年かぶりにテレビを見たら、ガチャピンの声が幼い頃のものと異なっていました。 私がそれに違和感を覚えなかったのは、単に最後のガチャピン経験から歳をとったからか、それとも幼い頃から、スキーやってるガチャピンの着ぐるみが明らかに脚が長く機動性に優れていそう、スキューバガチャピンも材質違いそうといった、いわゆる"中の人"への薄っすらとした理解をしていたからか、自分自身では判別が付きません。 飽くまでいち素人の目線ですが、初期Vtuberというのはガチャピンだったのでは、と今更の理解をしています。 キズナアイは、モデリングやモーション撮影の光景を積極的に報道し、複数人で創り上げているキャラクターですとアピールしていたのでは……ということです。 その"中の人"の可変性を活かし、スノボガチャピンとスキューバガチャピンを入れ替えるように、複数言語のキズナアイを発表し、それは一部のオタクから大きな反発を受けたと記憶しています。 今のVtuberはその属人性に強く依存している印象です。 "中の人"の生の反応、その人個人のヒトとナリにこそ注目し、追いかけているものと思っています。 ワダチ様の仰っている"キャラクター"が、その何処までを含有して呼称しているのか……何分この分野に関し全くの不勉強で、これまでの動画やnoteを拝見した上で未だに理解できていないのですが(或いは明確に定義すること自体が一種クリシェ化しているのであれば、ここで不学を詫びさせて下さい)、現状の、顔出し配信者と声だけ配信者の中間としての存在、個性を判別できるアイコンとしてのVtuberというのは、仰る"キャラクター"の範疇として扱うにそぐった物なのでしょうか。 私の素人感覚としては、多人数で共有された存在、例えばスキーもスノボもスキューバもできて呑気な声で喋る緑の恐竜としてのガチャピンは、成程確かに"キャラクター"であると納得します。 それを"中の人"個人の反応で縛るのは、ある種の勿体なさを覚えてしまいます。 これは現代キャラクター哲学において、如何に処理される物なのか、宜しければ見解をお聞かせ願いたく存じます。 | マシュマロ 匿名のメッセージを受け付けています。 marshmallow-qa.com

回答が遅くなってしまい本当にごめんなさい!
って、最近マシュマロ回答するたびに言ってる気がする!待たせてしまっていることに違いはないので何度でも言いますごめんなさい!

実は、回答記事を一旦書き上げてはいたのですが、ワダチらしからぬ出来になってしまったため、削除してリトライすることにしたのです。そのせいでいつもの倍は時間がかかってしまいました…。
削除した記事の反省を活かして、今回の記事では「ワダチの考え」に重きをおいて書いていきたいと思います。

質問者さんが気になさっている「VTuberはキャラクターなのか?」について、まず初めにご覧頂きたい動画があります。

こちらは、バーチャル世界で音楽活動をされているキヌさんによって2019年に投稿された『バーチャルYouTuberのいのち』というポエトリーリーディングです。
胸に迫る激エモ作品なので是非とも全編ご覧頂きたいところですが、特に注目して頂きたいのは3:08~。

わたしは、バーチャルYouTuberであり、キャラクターであり、魂であり、演者であり、一面であり、層であり、ロールプレイであり、個人であり、群像であり、虚構であり、商品であり、アバターであり、もうひとりの自分であり、よく似た他人であり、理想であり、我が子であり、ドッペルゲンガーであり、アイドルであり、…

バーチャルYouTuberのいのち』より書き起こし

ここではキヌさんがVTuberを構成するありとあらゆる要素を挙げており、真っ先にキャラクターも挙げられています。

さらにもうひとつ、引用させて頂きたい文献があります。

分析美学やVTuberを含むポピュラー文化について研究されているナンバユウキ(難波優輝)さんが書かれた論文です。
ナンバさんはこちらの論文で、「VTuberは三つの要素で構成されている」と主張しています。

「バーチャルユーチューバ(Virtual-YouTuber)」はパーソン、メディアペルソナ、フィクショナルキャラクタの三層からなる。
(中略)
以上の三つの要素によってVTuberが構成されており、それぞれの要素が互いに影響することでVTuber独特の鑑賞体験がもたらされているという主張を、試みに「三層理論(three-tiered theory)」と呼ぶことにしよう。

バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』より引用

ナンバさんも、VTuberにはフィクショナルキャラクタ(=キャラクター)の要素が含まれる、との見解を示しています。

このとおり、ほんの二例ではありますが、VTuberの中にキャラクターの要素を感じている方もおられるということがお分かり頂けたかと思います。
ここまで読んだ質問者さんも、「VTuberはキャラクターである」という意見には納得できなくても、「VTuberの中にはキャラクターの要素も含まれる」であれば多少納得できるのではないでしょうか。

さて、ここからはワダチの考えになります。
「VTuberはキャラクターである」とワダチが言った場合、それは「キャラクターというカテゴリの中に含まれているVTuberを指している」よりも「VTuberというカテゴリの中に含まれているキャラクターにクローズアップしている」の方が感覚的に近いです。

質問者さんは「VTuberはアイコンである」とおっしゃいますが、これは質問者さんが「VTuberというカテゴリの中に含まれているアイコンにクローズアップしている」状態といえます。
ワダチ、質問者さん、それにVTuberを見ている全員が、それぞれの視点・経験・感覚…そして欲望に基づいてVTuberが何者かを見定めているわけです。
どうでしょう?これならワダチの意見と質問者さんの意見、どちらも間違っていないということになりませんか?

「それじゃあそもそも、ワダチはなんでVTuberの中のキャラクターにこだわっているの?」と聞かれてしまうと、ウ~ム…。
それを説明するとちょっと話が長くなってしまうので、これまでやこれからの活動から上手いこと汲み取って頂けるとありがたいです…。
ヒントを出すとしたら『箱の中のヒツジ』ですかね。