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世界の終わり(c)

「ところでさ、今のうちに言っておかないといけないことがあって」
 と、それぞれの彼女との声を潜めて語るべき例の営みに関する際どく下世話な話でひとしきり盛り上がった会話に、締めくくりを付け加える、といった様子で、いくらか身を乗り出しながら、顎マスクを元に戻し、声はより一層潜めて、博は唐突にその言葉を口にした。ほとんど呟くように。
「明日の正午、世界が終わるんだよ」
 一呼吸おいて、それから、はぁ?と反応したのは、陽佑と俺とでほぼ同時だった。
「お前たちだけには、教えとくべきだと思ってさ。やっぱり」
「そうか、終わるんだ。なるほど。了解」と陽佑が言い、はは、と笑った。
「ありがとう、教えてくれて。知らないまま終わるのも何だかあれだし、ラッキー」と俺も合わせた。
「ラッキーじゃねえって。やり残したことがあったら、とにかく今日中に済ましてくれ」と博。
「そうする」と陽佑。
 それから俺たち三人は十秒程の妙な沈黙を分かち合った。マスクを戻した博の表情は今ひとつ読みにくい。陽佑と俺は顎マスクのままだ。

 そういえばさっきから、博は微妙に変だった。どこか上の空で、何か思いつめているようにも見えて、気にはなっていた。ナースだという歳上の彼女とのことは露悪的なくらい赤裸々に語っていたが、実は彼女とはうまくいってないんだな、と思った。
 ソイラテを飲み干して空になったグラスの底に残った氷を、カリ、と音を立てて噛み砕いた博は、ふぅ、とため息をついてから「冗談」と言った。
「いや、それ、わざわざ言われなくても、もちろん分かっているけどさ」と俺。
「どうしたの?情緒不安定?何かの発作?」と、陽佑も太い眉を八の字にして博の目を覗き込む。
「うん、冗談って言いたいよ。俺だってさ」 
「だから、冗談なんだろ?」 
「そうだよ、って言いたいよ」
 博は喉の奥から絞り出すような声を出した。どこか芝居がかっているようにも思えた。だが妙に目が据わっている。やはり様子がおかしい。博は俺たち三人の中では一番生真面目で優秀で、どちらかと言うとボケるよりはツッコミが専門だ。ドッキリを仕掛けてくるタイプでもない。それなら今一人で、一体何のための芝居をしているのだろうか。
「まあ確かに、冗談としてはいい出来とは言えんな。唐突すぎるし」と俺が言うと、陽佑が腕を伸ばして、向かいに座って俯いている博の肩をポンと軽く叩く。「病院、行ってこい」

「隠してたんだけどさ」ぼそりと博は言う。
「俺さ、分かるんだよ。先のこと」
 何か言おうとする陽佑を手で制して、俺は言った。「お前マジで言ってるの?」
「…まあ、信じないだろうけど」
「じゃ、どう終わるわけ?世界は」
「…それはまだ分からない。でも、とにかく終わる。それだけはっきりしている」
「いやいや、それじゃ冗談にもなってないでしょ。ツッこめないよ」と陽佑が口をへの字にする。
「分からないけどとにかく終わるって、そんなんじゃ先のことがわかるとはとても言えんだろ」と俺。
「いや、本当に分かるんだけど、限定的だし、中途半端だし、自分でコントロール出来ないんだよ。それに、わかった時にはいつも手遅れで、何の役にも立たない。ただはっきりしてるのは、一旦分かったことは間違いなく起こる。東北の震災も津波も、コロナのパンデミックも、ウクライナの戦争も、ハマスとイスラエルの戦争も、実際に起こる直前には俺はもう知ってた。というか、知らされてた」
「マジでやばい。お前」
「説得力無いのは分かってる。だから今まで誰にも言わずに隠してきた」
「いや、それ信じろって言うのが無理だわ」と陽佑が憫笑を浮かべた。
「マジで病院行った方がいいよお前。心が疲れてるんだよ」
 博は首を小さく振った。
「病院はとっくに行ってる。軽い鬱だと言われて薬出されてる」
 陽佑と俺は顔を見合わせた。
「でも、薬飲んでも変わらない。相変わらず、時々見えるし、それがいちいち当たるし」
「じゃ、最近では何が見えたんだよ」
「芸人の大浜、自殺しただろ。あれは二日前に知った」
「その証拠は?」
「無いよ。まあ、信じてくれって言う方が無理だよな。確かに。逆の立場だったら俺も信じない」
「…もし、大浜のことを、その日のうちにブログとかに書いてたらバズったかもよ」陽佑はそう言い、もったいね、と呟いた。
「書ける訳ないだろ。俺だってそんなの、実際に当たるまで信じられないし、それに、実際に当たるかもって思うと、とても怖くて書けない」
「なるほど、分かった。じゃ、さ、お前のその能力を、どんな形でもいいからさ、とにかくこの場で証明してみせてくれよ。例えば今、何が見える」
「そんなんじゃない。見ようとして見えるものではないんだ」
「何だよそれ」陽佑は露骨に、呆れた、という表情を浮かべている。
 博は眉を顰めて俯いて、それから不意に、あ、と小さく呟いて顔を上げた。
「…今夜のお前たちが見えた。健次はスマホで誰かと話してる。陽佑は彼女と車に乗ってる」
「お前の言う,世界の終わりを信じて?」
「たぶん」
「それじゃ別に普段と大して変わらんじゃん」
「健次は…電話しながら泣いてる」
 はぁ?と思わず声が出た。博の戯言を信じた挙句に、俺がそんなザマになっていると?そもそも誰かと電話していて泣いたなどという経験は、これまでの人生で一度もない。
「アホらし」と俺は言った。博は首を小さく傾げながら肩をすくめた。陽佑は腕組みをした。

 しばらくして、博が不意に言った。
「何か書くもの、ない?紙二枚とペン」
 陽佑が隣の席に置いたリュックから、ボールペンと小さなメモ帳を取り出し、二枚のページを破り取って、黙って博に渡した。受け取った彼は、陽佑と俺に「ちょっと後ろを見てて」と言い、二人がそうしている僅かな間に、二枚の紙に何か書いたようだった。
 いいよ、という博の声とともに前に向いた俺たち二人のテーブルに、二枚の紙が置かれている。
「裏に何か書いてある。まだそれ捲るなよ。陽佑すまん。紙をもう二枚」
 陽佑が、メモ帳から更に二枚破り、博に差し出すと、彼はそれを陽佑と俺とで分けるように言った。
「お前たちも,俺の目の前で、その紙に自由に何か書いてみて。書き終わったら、それを目の前に伏せてある紙に並べて、置いて」
「何でもいいの?数字とかでも」
 俺が念の為訊くと、博は頷いた。
 陽佑がまず、3478という数字を書き、俺にボールペンを回した。俺はカタカナで大きく、バカ、と書いた。そして二人ともそれぞれ言われた通り、目の前の紙に並べて置いた。博の表情が僅かに歪んだ。
「俺が先に書いたし、紙をそこに置いてからは触っていない。そうだよな」
「ああ」と陽佑が低い声で言い、俺は黙って頷いた。これから起こることは予想がついた。そんなことがあってたまるか、と思った次の瞬間には、いや、ひょっとして、と思った。そして不意に、いや、絶対にこれは、という確信が、俺の身体の奥深いところで、俺を揺さぶった。
「じゃ、伏せた紙を捲って」
 博の言葉と同時に、俺たちはそうした。
 裏返した紙には、博の几帳面な性格が反映された整った筆跡で、それぞれが書いたのと同じ、四桁の数字と二字のカタカナが書かれていた。
「これは手品じゃない。タネはない」
 博は静かにそう言った。

 俺たち三人はカフェを出て、大学通りの並木道を駅の方に向かって歩いた。三人とも口をきかなかった。途中、ゴミ箱があったので、俺はマスクを外して捨てた。陽佑がそれに続き、博もそうした。
 博が最初に沈黙を破った。
「具体的に見えることもあるし、ぼんやりしたイメージだけのこともある。大体は、一日位前から、霧が晴れてくるように少しずつ見えてくる。でも直前にならないと映像みたいにはっきりとは見えない」
「さっきの店で俺たちに見せたのは?」俺は訊いた。
「あれは、はっきり見えた。お前たちが何を書くかも」
「そうか」
「あのさ、縁起でもないこと言うけどさ」陽佑が博に向かって言った。
「お前、ひょっとして明日、死ぬんじゃない?」
 博は黙って聞いている。
「事故とか、いや、まさかとは思うけど、自殺とか。そしたら、お前にとっては世界が終わるだろ?」
 博の口角が少しだけ上がった。寂寥感に満ちた笑顔だった。
「いや、文字通り、我々全員にとっての世界が終わるんだよ」
「地球が爆発すんのか?巨大隕石とか降ってきて」
「いや、まだ分からない。もうちょっと直前にならないと。たぶん明日にははっきり分かるよ」
「じゃ、今現在、どう見えてるんだよ」
「何というか…まだ映像的ではない。言葉でうまく説明できない。ただ、もう空っぽ。何もない。虚無だよ」
「当たるんだよな」
「当たる。間違いなく」
「とにかく俺たちは明日には、もうこの世から消えるってことか」
「まあ、そうだな」
「というか、俺たちを取り巻く、この世界も消えてしまうんだな」
「そう」
「地球も、宇宙も、全部か?」
「分からない。ただひたすら、どこまでも無になる」
「何だよそれ。気持ち悪いな」
「ああ、実際,気持ち悪い。気が狂いそうだよ。何でこんなの知らされなきゃならないんだって、心底思うよ。何で俺なの?って。分からなければどんなに楽だか」
 陽佑と俺が黙っていると、博は,ごめんな、と言った。
「ちょっと一人ではもう抱えられなくてさ、すまん」
「いいんだよ」と陽佑が言った。
「気にすんな」と俺も言った。

 駅で博と陽佑と握手して別れた。
「じゃあな」
「うん」
 もうこれで彼らとも二度と会うことがないのだと思うと、不意に涙腺が緩みそうになった。
 陽佑はアパートには帰らず、彼女のところに行くと言った。博は一旦家に帰って、それからバイクで出かけると言った。どこに行くかは決めていないと。俺はとにかくアパートに帰り、もう何ヶ月も連絡を取っていない親に、とりあえず電話しようと思った。明日でお別れならば、感謝の一言でも伝えておかなくては。博の予言通りになるのは悔しいけれど、その時、ひょっとしたら泣くことになるのかも、と思った。


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