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湾岸道路、魔物と花火、Chet Baker

ハンドルを握っているのは私だった。
二人して港町の小さなバーでさんざんバーボンを飲んで笑った夜。
 
久しぶりの君。あいかわらず飛びきり素敵な男だった。
トランペットを片手に持って、自分の出番が来るまでの間少し眉間に皺を寄せて首を傾けて目を閉じている、ピンと背筋を伸ばして胸を大きく開いた姿。まっすぐにこちらを見つめているにもかかわらずいつもどこか違う世界を見ているその憂いに満ちたまなざし。酔ったバンドの連中が陽気になればなるほど君は寡黙にバーボンを煽った。あの頃、君は19歳だった
 
私たちはいつでもクールな友達だった。どこかバイセクシャルな君は男も女も魅了したものだった。私にはいつも色んな男が居て君にもいつも色んな女が居たけれど私たちは多くを語る必要なんかなかった。
黙って向かい合ってバーボンを飲む。そしていつも君が色んな音楽を聴かせてくれた。Miles Davis , Art Pepper, Stan Getz 。
 
君は19歳の時からどこか老いていた。悲しみ、憂鬱、誇りと冷酷。そして行き場のない怒り。ありとあらゆる感情を細いカラダにいつも抱えこんで疲れ切った微笑みを浮かべていた。
 
君と再会するのは何年ぶりだったのだろう。あの時は珍しく色んな話をしたね。昔のこと今のこと。消えていった仲間たちの話。君はもう19歳じゃなかったし私は取り憑いて離してくれずとことん地獄を味あわせてくれたあの若さという魔物からようやく解放されるところ。
 
キラキラと町の光が夜の海に映し出される湾岸沿いの道路を私がハンドルを握って君をホテルに送っていく。君がカセットテープをジャケットのポケットから出してカーステレオのプレイヤーにかしゃりと押し込む。
The Touch Of Your Lips 、Chet Baker。
 
ウィンドウを下ろして海からの風を車に流し込む。くわえ煙草の顔を窓から背けるけどなかなか火が点かない、片手で握ったハンドルがよろけてセンターラインに車がよろける、助手席の君が苦笑いしながらライターを私の手から取りあげる、自由になった手で髪をかき上げる、ライターの火で焦げないように。それから君も煙草に火を点ける。
 
Chetのソロが流れ出すなりすべてがスローモーションになる。
 
甘い重い湿った海からの空気がまるで溶け出した金属のように時間の流れに絡まる。呟きともため息ともつかないトランペットのメロディー、Chetのささやくようなあの歌声。もう若くはないのに少年のよう、そんなに年老いていないはずなのに死に限りなく近い老人のよう。麻薬でボロボロになればなるほど深い艶を増したモノローグにも似たあの音色。二人が交互に肺から吐き出す煙、眩暈。
 
夜のイルミネーションと潮風を顔に浴びながら、いつになく馬鹿に陽気に笑う君と私はかつて一度も恋愛関係になったことなんてないのに、このままハンドルを切りきってセンターラインを横切って海に飛び込むためだけに、今この瞬間車を走らせているような、そんな錯覚ともつかない妄想ともつかない美しい衝動に鷲掴みにされる。
 
ルールや順序なんてはなっからないんだ。儚い線香花火のように闇の中に浮かび上がって消えていくだけの一瞬の美しさにどうして秩序なんて必要だろうか。この美しさを手放したらその後の闇は絶望的に永遠に続くのかも知れないのに。
 
あの時に君が車に残していったカセットテープを再生するプレイヤーはもう存在しないし私はまだ十分に年老いたとは言えない。Chetの年齢はもう追い越しているのに。もっともっと顔に皺が刻まれて肉体が枯れればあんな艶やかさに包まれるのだろうか。そんな時季はまだ私の人生には訪れてはいない。
 
 
 


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