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母の死、私の死

 
母の内臓のひとつが癌で覆い尽くされていること、その内臓ごと取ってしまう手術を母が拒絶していることを、突然赤の他人の電話で知らされてから約3週間が経った。(母は遠くに暮らしている娘たちに隠そうとしていたのだ)
 
母が死ぬ、遠くない将来。
そう考えることは私にとってすなわち私の人生、私の存在の一部が死ぬことであった。母のカラダに巣食い始めた癌細胞が私の50年間の人生と生命と肉体に空洞を作り始めたのだった。
 
周囲の人間が「私たちがどんなに心配していることか、孫たちだっておばあちゃんに報告したいからと頑張って受験勉強してるのに、車の免許取ったからおばあちゃんをドライブに連れていこうって楽しみにしてるのに」などといったありきたりの感傷で母が望む彼女自身の死の形を曲げるのは間違っている。家族の中で私ひとりはそれを知っている。なぜなら母と私には共通の死生観があるからだ。
 
20代の時に一度、私は母の前で死にかけた。
人生に絶望しひどい鬱の希死症状にとらわれていた私は睡眠薬や向精神薬をワイン1本と一緒に飲み下して集中治療室で3日3晩生死の狭間を彷徨って生き延びた。第一発見者の母は救急車を待ちながら何年にも渡る闘病で痩せ細った私のカラダを抱きかかえながら「この子はもう死んだ方が楽なのかも知れない」と思ったのだそうだ。
 
生き延びた後は更に地獄だった。あの時なぜ死ねなかったのかとしか思えなかった。父母に対する申し訳なさだけが私を生かしていたと言っても過言ではない。生き延びて更にひどい鬱に苦しみアルコール摂取による緩慢な自殺行為を続けていた私は父母の側に居ることにも耐えられず一人で外国に暮らすことに決めた。
 
後に母はこう述懐した。
「あの時はこれでお前の顔を見るのは最後だと思って空港で見送ったよ」
 
驚くべき母の胆力ではないか。もちろん母は私に死んで欲しいと思っていた訳ではない。母は死を賭してでも私に生きて欲しかったのだ。鬱でガリガリに痩せこけて絶望している私を見るくらいならば、敗れれば異国の地で行き倒れになるであろうギャンブルに賽を振ったのだ。
 
果たして母と私はギャンブルに勝った。私は生きる力を取り戻した。
 
今、私はあの時の母と同じ立場に立たされている。生憎母は苦しみからはもう逃れられない。彼女に残されたカードは残った時間をどう生きられるかという事だけなのだ。私の手元にあるカードは彼女が残りの時間をどう生きどう死んでいくかを見届けてあげることだけだ。
 
私の空洞は?母とあの時に死を賭して手に入れた残りの人生だから私は生きなければならない。母が私に残すであろうこの空洞を埋め尽くすくらいのエネルギーを以って。
 
May love be with you.
May peace be with you.
 
 

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