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平日の公園が纏う光と影~創作大賞2024エッセイ部門応募

平日の、昼下がりの公園は平和であり危険である。

かれこれ20年ほど前になるが、サラリーマンを辞めて翻訳と執筆を専業にしたばかりの頃、仕事がないとき、あっても一向に筆が進まないとき、憂鬱な気分に苛まれて陽の光が欲しいとき、そんな平日の昼間に散歩がてら近所の公園に出かけることがよくあった。
その公園は、都会にしてはかなり広く、半分が砂場やブランコ、滑り台などの遊戯道具、半分が噴水を中央に置いた屋根付きの集会所という構成になっており、自然と遊戯道具のほうには小さな子どもと母親たちが集い、集会所の方には高齢者を中心とした平日の昼間に何もすることがないひとたちが集まるという具合だった。
わたしはそのどちらにも属さず、両者の中間にある芝生のそばのベンチに腰掛けてぼんやりとするのが通常だった。近くには野良猫が数匹いて、猫好きのわたしはその様子を観察するだけで落ち着いた気持ちになれるのだが、猫のほうはといえば、最初は警戒していたものの、わたしがいつも同じ場所に座り、声をかけるでもなく、触ろうとするのでもなく、ただじっとしているため、こいつは無害だと判断したのだろう、次第に距離を詰めるようになり、一月も経たぬうちに膝の上に乗るようになった。猫というものは大抵そういうもので、構うと逃げる、構わないと寄ってくるのである。そうして得た野良猫のぬくもりも行き詰まったときのわたしの心を癒やしてくれる要因で、公園に通ったのはそのためでもある。
さて、そんな公園は一見平和そのものである。膝の上に猫を乗せてベンチに腰掛けているわたし、その近くで遊戯を楽しむ子どもたちと甲高い声で交わす母親同士の会話、集会所の高齢者たち。
だがある日のこと、集会所の高齢者のひとりがわたしのほうに近づいてきて声をかけた。
「そいつはおまえの猫か」
身なりが乱れたその高齢者はあきらかに酔っていた。集会所のほうに行ったことは一度もないが、昼間から酒を飲む連中も多いのだろう。わたしがたまに来ているのをずっと観察していたらしい。
わたしは答えなかった。あきらかに絡もうとしているのがわかったので、何を答えても無駄である。
「おれにも抱かせろ」
わたしは答えない。じっと相手の目を見たまま黙っている。
そうすると、そいつは懐から小さなナイフを取り出した。そして、くいくいと前後に動かしながらこう言った。
「刺すぞ」かすかに笑みを浮かべている。
わたしはそれでも相手を見たままじっと動かずにいた。こういうことは若い頃にもあった。そういうときのわたしの心は極めて冷たく平静である。波風ひとつたたない。刺されても構わないという気持ちもある。いつ死んでも構わないという気持ちもある。決して投げやりになっているわけではなく、人の命はどこでどう終わるかわからない、そういうものだと割り切っている。
そうやって対峙したまま1、2分経つと、相手は「ちっ」と舌打ちして、集会所に引き上げていった。集会所に戻ると仲間と一言二言交わしたあとわたしに興味をなくしたのかいつものとおりの光景に戻った。
わたしはため息をつくと、席を立った。いつのまにか膝の上の猫はいなくなっている。相変わらず猫の危険探知能力は正確だ。わたしは苦笑した。

遊戯所の方を見やると、なにも知らない子どもたちと母親が相変わらず遊びや談笑にふけっている。
時計をみると意外と時間が経っていた。
真、平日の昼下がりの公園は平和と危険が隣り合わせだ。
これが日常であり、世の中そんなものだ。
わたしは平和な時間を過ごす母子たちを横目に公園を後にした。


20年ほど前のわたし自身の体験をエッセイにしてみました。
みなさん用心してくださいね!

なお本作は創作大賞2024のエッセイ部門に応募します。

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