絡みつく何かと、あっけなく過ぎる日常のこと。 2022.11.13
最初に就職した会社の、同期が亡くなった。
打ち合わせ最中に通知がきていた。もしや、とよぎる。用事を終え急いで一報を聞くためいっとき車を路肩に停める。外は1度くらいでよく冷えた。車のシートヒーターがありがたかった。
50分ほど電話で、他界した友をよく知る友人と話す。黙っている時も多かった。
そこから次の動きを相談する。それで電話を切った。意識が朦朧としてきて、免許を取って初めて、両手でハンドルを握って家に帰った。
生きるを終えようとする人を前にして、決まって濃厚に私に絡みつくものがある。しんどさ、後悔、懺悔、なぜだ、どうして?という気持ち。できることなら何かの、誰かのせいにしたくなる。でも実はどんな時もそれはできない。ねっとり絡みつく。息がしづらい時間が長く続く。
あの扉が閉まって、もうその人のかけらを感じられないとき、生きるを終えたその人を感じたとき、今まで絡みついていた感情が濃度が悲しいかな、低くなってゆく。そうして思う。
「こんなふうにあっけなく、こうも自分の日常が続いていっていいんだろうか」。
何か戒めというか。誰に問われるだけでもなくて、誰に怒られるわけでもないのに、たった1人の存在はあまりにも宇宙のように大きくて広くて、何かそうした自分を覆うものに対峙して、その片隅で体操座りをしてしまう感じ。あまりの無力さに首をすぼめる。あの子のいのちという宇宙に対して、まるで小さな自分。
少し前の自分が入れた予定に、必死になって追いついてぶら下がる、そんなイメージ。集中力があまりにも持たない状況にまた息苦しさを感じる。
中学から高校にかけて、よく単車の後ろに乗っていた。私と同じか、それ以上に鬱屈した人たちが単車を飛ばしていた様子は、病気とは無縁ないわゆる健康体と思われる青年たちが、生きるしんどさや絡みつく何かを風で吹き飛ばそうとしていたのかななんてふと思い返す。
そんな彼らの後ろ姿をみていて、あーこのまま天国行きそうだなあなんて思いながら、でも速さに振り落とされないように単車のシートを、必死ににぎっていた自分の姿が急に目の前に広がった、そんな夜の一報だった。
そうして彼女を想い続ける。病の中にある幸福を照らしていたような、そんなことがあの子の暮らしを少しでも支えてくれていたなら、と今でも願う。そう思うのは今からでも遅くないかもしれない。
生きるを終える様子に慣れてはいけない。いつだって悲しむ。くらう。それで日常をきちんと持ち続けていく。それでも日常があっけない。あっけなくすぎていく様を必死に追いかける。