夜のさんぽ

アプリで英語学習してたらなんか勝手に涙が出てきて、こりゃ気分変えなアカンって思って家を飛び出した。

本当は家出みたいな気持ちで、心配させてやろうと思ったんだけど、日も暮れかかっていたし、先週から情緒不安定な私をわかってくれていたのか、夫が付いてきてくれた。

いつもの平坦散歩コースじゃなく、裏山の散策ルートを上がっていった。私がスタスタ歩くのを黙って夫は後ろから付いてきた。

なんかいつもと違うことして刺激を入れないと済まない気でいた。前にも歩いたことのある道だったが、嗚咽混じりで階段で息が上がったり、暗い影の茂みの音がやたら鮮明に聞こえたりして、それまで心の奥にあったなにかより、いま目の前の不気味さにいてもたってもいられず、「なんか音したよね」「ここ前も通ったっけ」と家を飛び出したときの緊張感を自分で壊すようなことをつぶやいてしまった。

転ばないように、しかも暗がりに何かを見つけられたらと目をこらしていたら、けっこう歩いてきたように思えた。

裏山を降りる頃には街方面の夜景がくっきり見えた。この時間のあの方向、夫と2人、ぬるい風もが、あの時の夢のように異常な夜を思い出される。

ごめん。今は悲しい思い出だ。これでよかったって、直後のほうが思っていたかもしれない。

自分の子どもの頃の悲しい思い出しかり、かさぶたを剥がすみたいに何度も思い返しては、辛い思いを強化してしまわないだろうか。

忘れてはいけない、忘れるわけがないと繰り返し考えると同時に、その度に再び傷つく、去年の夏の思い出がそんな諸刃の剣になってしまうのは嫌だ。

気持ちを閉じ込めるのではなく、共存できないのか。

そうか、それが私の書く原動力だ。実生活と全然関係のないところで気持ちを解き放てばいい。

We can live in the world we design.

書かないと病むのか、病むと書くのか
知らんけどこれを誰が読んでもおもしろいように書けたら強いね

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?