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人生の成績表

家を建てた頃に、将来的に2つの子供部屋にしようとしていた部屋。
完全にリモートワーク化して、この会社に居る間はほぼ1日の大半を家で過ごす事が確定した身としては、仕事部屋(しかも家の中で居心地のいい部屋)を確保することは至極真っ当な要求だと思う。
というわけで日の当たる2階の子ども部屋の片方はわたしがそのまま使うことが家族会議で決定した。
というか、MAXサイズのヨギボーを与える事と引き換えに息子に1階の和室を半自室とする契約に合意させたのだ。

そして、いろんなものの断捨離が始まった。

主に子供達の洋服や玩具を収納していた無印のユニットシェルフ✖️3、室内物干しポール、室内物干し、押入れ収納✖️4を粗大ゴミとして出した。

これだけのモノを買って、捨てる。
買うのにもお金がかかり、捨てることにお金をかける。

人生の成績表が、一生のうちに稼いだ額と使った額の収支、つまり死ぬ時点での資産によって決まるのならば、これらのモノたちはわたしの人生のマイナスポイント
だ。

死ぬ時のその一点で、所有するモノの総決算で人生の価値が決まる、そんなレースだとしたら、形あるものは最期の瞬間までその役目を維持しているもののみが価値を持つ。

無印のシェルフは、子供たちの小さな洋服を区切って収納するのにとても重宝した。しかし、子供たちが成長して洋服が大きくなると、次第にその小さな収納スペースは使いづらいものになっていった。
押入れ収納もそうだ。かつて義両親が遠方に住み月に一度泊まりに来ていたときは客用布団を押入れに収納していた。息子が小学生になるタイミングで義両親が徒歩5分の近居となってからは、義両親が我が家に泊まることはなくなり、客用布団は年に数回、子供たちの友人が泊まりにくる時のみの出番となった。

今はもう、不要なモノたち。
でもわたしはこの10年弱、確かにこれらのモノたちに助けられて生活を営んできたのだ。
だから、無駄な買い物だったとは全く思わない。

こうして考えると、人生とはつくづく、結果ではなくプロセスなのだなぁと思う。
その時々にお出迎えするモノたちに囲まれ、人生の一部をともに過ごし、いずれ手放す。
その一瞬一瞬が自分にとって快適であり、周囲も笑顔で過ごせていたなら、それは満点の人生なのだ。

そう考えると、何らかの「結果」を積み上げよう友がいている日々の事柄がすごく瑣末なものに感じるよね。自分自身は何かの区切りをつけて、「結果」を出そうとしているんだけど、所詮は全て人生という「プロセス」の一部。
そしてその「結果」は、死というただ一瞬に自分が意識する(かもしれない)だけのものだ。

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