アイデンティティの話
最近、SLOW LABELという団体の新作サーカス公演プロジェクトに参加しています。
障害を持つ人とそうでない人、パフォーマーと非パフォーマーが一緒になって、サーカス作品を創り上げるプロジェクトです。
本当にいろんな方がいて、自閉症やダウン症、聴覚・視覚障がいの方や、脳性麻痺の方もいます。ダンサーもいれば役者もいて、もちろんジャグラーもいます。本当に様々で、十人十色という感じ。
色々な人と絡むうちに、漠然とした「自分は何者なのか」という割とありきたりな疑問が湧いてきました。
僕は生まれつき右耳が聞こえない人間です。分類としては多分ですが最重度の、先天性伝音性難聴です。片耳なのでもしかしたら違うかもですし、病院に通っていたのは幼い頃なので医者の説明なんか聞いていません。覚えているのは「音を伝える神経がどうにかなっている」というのと「補聴器は意味がない」ということぐらいです。あと病院帰りのスタバのチョコチャンクスコーン。
そんなんですが体はむしろ利く方だと思います。言葉も自分の認識している範囲では、いわゆる難聴訛りは発生していなさそうです。
左耳は普通に聞こえていますし、会話を行えてきたので手話はできません。
日常生活も支障はなく、まあ電車とかご飯の席で人に左側に来てもらうくらい。たまに伝え忘れて聞き取り頑張り状態になったりもします。
そんな感じで人生20年を過ごしてきたのですが。
なんだか最近「自分はどっちサイドなんだ?」という疑問があります。
ジョジョ8部の吉良吉影が言っていましたが「物事の境界線を越えたり入ったりするのは『気に入らない』」というヤツです。
自分は「障害者」なのか「健常者」なのか。
もちろん「右耳が聞こえない人」なので健常ではないのですが。
じゃあ「右耳が聞こえません」と言ったところで「あなたは障害者なんですね」となるのか?となります。
コミュニティの話をします。
手話ができないので、聾者・聴覚障害者のコミュニティには入れないな、と思います。たとえ覚えたとしても、立ち位置としては第2言語的ポジションでしょう。英語を話す日本人、みたいな。
じゃあ健常者のコミュニティではどうかというと、「配慮」をする必要がある存在なんですよね。さっき言った「左側に来てもらう」がそうなんですけど。相対したときに相手が「あ、この人はこうしないとだったな」となる。フラットじゃない存在です。
なんでこんな話をするかというと、最近そういった「コミュニティ」の存在を実感する機会が多くなったからです。
唐突にEJCの話をしますが、Open stageでは司会の横で手話通訳が行われていました。聾者のパフォーマーも出ていて、その時は拍手ではなく両手を上げて振る、という恐らく手話での拍手をしました。
SLOWの稽古では、手話のできる人たちで自然にそれを用いた対話が行われます。
そういう輪に参加できない存在なんだなぁという、実感が最近になって生まれました。
一方の健常者コミュニティでは、結構昔から「なんだかんだ"気を使わないといけないヤツ"なのだな」という自己認識があります。
割といくらでも話せる気がしてきたし、多分読んでる人みんな何が言いたいかも分かっていないだろうとは思うのですがそろそろ畳みに入ります。
どちらのコミュニティにも入れない存在なんだなと思います。それが良いか悪いかはさておいて。
片耳難聴は、一般的には障害者手帳が発行できません。もちろん程度によっては対象になります。
名前のない存在なのかな、というふんわりした考えが最近のものです。人は名前が付けられて初めて存在を認識すると思っています。でもこれには名前が無いので、みんな知りません。少なくとも僕は知りません。
僕にはこれが普通なので「じゃあ、あなたは何に困っているの?」と聞かれたら何にも困っていないです。他の人が困る時は多々あると思いますが。
さっきも言いましたが「右耳聞こえないんですよね」と言って「あなたは障害者なんだね!」とはならないんじゃ無いかと思います。なって欲しいとかでは無いんですけど。
健常者とはフラットじゃなくて、障害者と言うにはなんか違う、これは何なんだろう、という感じ。
まさかジャグリングを始めてこんなことを考えるとは夢にも思っていなかったのですが、始めていなかったらこんなことを考える機会も無かったんだろうな、とも考えます。
畳みに入ったところで「だから何が言いたいんだ!」って感じですが特にこの話をして伝えたいこと的サムシングは何も無くて「ジャグリングを始めてからこういうことを考えてるんですよ〜」くらいです。
自分探しの旅でもしてみようかしら。
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