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おどるとは

今、大野一雄氏の映像をみている
晩年の稽古風景や日常、舞台の様子
いつもいつも常におどっている

実際に拝見したことは、慶人氏の舞台ならあるが、一雄氏は残念ながら記憶にない(追記:拝見したこと思い出しました。)

映像ではあるが改めて拝見すると、感じることがあり過ぎて言葉にならない

一般的には『舞踏』というくくりなのかもしれないけれど、もはや私にとっては〈おどり〉としか言えない

私の父は認知症で亡くなった
父はおどりなどにはほぼ縁のない人だったが、今思えば晩年の彼の動きはすべて〈おどり〉だった
何かを目と手で追う、つかむ、投げる仕草、など
時には実際に物を集めたり束ねたりと、労働を思わせるような行動
それはせんえつながら、一雄氏のそれと重なって感じられて仕方がない
父のたたずまい、表情、手の力強い動き、全てが重なる

生と死の狭間の、削ぎ落とされていく心身


それに対して、先日の子どもたちの発表会のみずみずしくまぶしい輝き
存在感、躍動感、いきいきとしたからだ、たのしみあそぶような姿

どちらも〈おどり〉なのだ
どちらも涙が出るほど美しい

生きること、死ぬこと
全てがおどりなのだ

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一雄氏が亡くなってもう十年、慶人氏も亡くなった
私の、幼少から成人するまでの師も

それでも、おどりは在る


ワクラバ O'


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