手紙の魔力 井上荒野『綴られる愛人
面白くて面白くて、面白さが過ぎて、いっそ憎く思える小説がある。
それだけ心を揺さぶってくれる小説に出逢えた事を幸福と慶ぶべきだろうが、否、やはり憎い。
憎くて堪らない。
作品を拝読する度、私をそんな陰湿な女へ堕落させる小説家が居る。
井上荒野氏である。
氏は「全身小説家」と呼ばれた作家、井上光晴氏を父に持つ。
荒野と書いてあれのと読ませる名は実父が与えた本名であるから又、創作者として恵まれ過ぎていると言えるだろう。(ご本人はどう仰るか)
更に言うと授かったものは名前と才能のみでなく、全身小説家として生きる姿勢である様に思う。
二〇一九年に上梓された『あちらにいる鬼』は実の父と瀬戸内寂聴氏の恋愛が題材に採られた。
光晴氏には当時、既に妻子があった為、世間一般・俗に言う不倫関係(私はこの言葉が大嫌いだ、倫理も義務も、何もかも凌駕する真実の恋すら不倫とひっくるめられては浮かばれない。)である。
それを小説家となった実の娘が書いた、全身で書き切ったのであるから堪らない。
一見歪な創作活動に見える本書はしかし、内容のみでなく本人達も至極からっとしている。
帯には瀬戸内寂聴氏のこんな推薦文が躍った。
「作者の父 井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった。」
スキャンダラスな要素を孕んだ作品と言えば確かにそうだが、家庭と寂聴氏宅を二分して行き来した光晴氏は、女達にどこまでも赦される。
女達の嫉妬は寂聴氏の出家を経て次第に、同じ男を愛した女同士の友情として成立していきさえするのだ。
この奇妙な友情関係が、素晴らしく爽やかなのである。
自身が三途の河を渡る直前、誰に手を握っていて欲しいか―
好奇心がページを捲らせていた筈が、本を閉じる瞬間は読者自身の人生へ目線を転嫁させる。
ファンとして喜ぶべき翻弄である。
荒野氏について話す時、私はついつい脱線を避けられなくなってしまう。
素晴らしい作品が多い証拠であるが…
話を表題の『綴られる愛人』に戻そう。
本作も又面白くて洒脱、そして人間の決して美しくない心理・感情をつまびらかにする。
飄々と。
そう、ここがポイントなのである。
荒野氏の小説はいつも飄々としていて、掴み所が無い。
何を考えているか知り得ぬ男性に強く惹かれる時、(少なくとも私は)相手に腹立たしさを感じる一方で、本当はその状況を歓迎している事に気付く。
自分自身にも同時に腹を立てながら、結果、その危うさ・際どさに知らず知らずの内、絶対的な服従すら芽生えている事を知る。
何だか荒野氏の作品って、そんな気風の男前なのだ。
今度はフェチズムの話になる前に、物語の筋へ話題を移そう。
主人公・天谷柚は児童文学作家として既に確固たる地位を築き上げている。
読者達は彼女の作品のみならずライフスタイルまで透かして見、彼女の偶像を各々の中に作り上げている様だ。
その天谷柚像を作り上げた人物は、誰でもない夫である。
優秀な編集者である夫は世間が持つ天谷柚像の印象を操作する事に心を砕き、彼女の創作活動と私生活全般を掌握していた。
精神的なドメスティック・ヴァイオレンスである。
芸術家らしく想像の羽を拡げ、創作の世界に昇華させる事。
そう言った芸術家の人権、否、生存権を放棄させながら、それが正義であると信じて疑わない。
しかし、そんな窮屈な鳥籠に柚が甘美性を感じていた事も又事実だ。
女心って、本当に複雑。(溜息)
拘束を甘んじて受け入れる事に得も言われぬ愉楽を感じる日もあれば、密やかに抵抗してみたい自分も居る。
彼女の「密やかな抵抗」は初め、至極些細な事であった。
それは、「綴り人の会」と名乗るコミュニティに登録し、見知らぬ異性とペンパルになる事。
嗚呼、創作に還元させる、と言う大義名分で(自身にもそう言い聞かせて)始めた事が文通なんて。
意を決して図った抵抗、(半)革命が文通だったなんて。
やはりどこか少女的で、浮世離れしている感は拭えない。
(そこまで世間知らずな彼女だからこそ、鳥籠の中で何年も囀っていられたのだろうし、夫の様な人間の嗅覚から意図も簡単に探し当てられてしまったのだと思うが…)
結果、「綴り人の会」は、彼女と夫、とある青年の生活を一変させるトリガーとなってしまう。
ペンネーム「凛子」として相手の募集を掛けた柚。
華麗な大人の女性を想起させつつ影をも感じさせる募集文に釣られた男性は少なくなかった。
上々の反応と手紙の数に驚きながら、柚はたった一人の相手を選出する。
その相手こそが、富山県在住、うだつの上がらない大学生・航太であった。
航太は、自身を実際と真逆のエリート・サラリーマンと名乗り、凛子と文通を続ける。
仕事は精力的にこなす由、金銭的に裕福で、素敵な趣味と夢を持っている。
夫に不満があれば、ぐらりと貞操観念を揺るがされそうないわゆるハイスペックである。
しかし柚は何だかんだ、夫に惚れていた。
(と、思う。だって彼女は夫が居ないと生きていけない事を自覚している。)
そして柚は何と言っても、プロの物書きである。
大学生ごときが文章で彼女を騙そうとしたって、そうは行かない。
只、ここから二人の運命は強く絡み合っていくのだ。
平凡な出逢い方であったなら、二人を繋ぐものは恐らく何も無かったであろう。
経済的には勿論、年齢、婚姻歴、人生経験…
越えられぬ壁の数々は愉快犯の様に二人を隔てる筈だ。
しかし、ひょんな切っ掛けから始まった奇妙な関係性はいつしか「恋愛未満」の危険な雰囲気を孕み、柚は航太の心を弄ぶ。
航太は柚の魅力に搦め取られ、初めて知る大人の色香に学業も手に付かず、一路東京へ…
いや、うん?違う違う。
気が付けば、物語に不穏な影が差していた。
柚の心の均衡が、とうとう保たれなくなってきていたのだ。
プロの仕事であった筈の文章は冷静さを欠き始め、航太にさえ不安定な胸の裡を読み取られてしまう。
そんな折に、柚が航太に差し出した試練。
それは、彼女の夫を殺して欲しいと言う望みだった。
―書く事を生業としながら、手紙の中で平静な自身を見失っていく様は、見事な陰から陽への変遷だ。
手紙とは、本当に不思議なツールである。
私も筆を執るが、人前で活動をする自分と手紙の中の自分が乖離していく感覚には身に覚えがある。
決して殺人が主題でないものの、どんどん事件性を帯びてくるスリルはやはり読者の心拍数を上げるし、二人の倫理が崩落していく様を、乱れていく文章から読み取って頂きたい。
夢中で読み終え、一息吐いた途端、著者に対する畏敬の念に満たされた。
拝啓 井上荒野様
貴方と同じ時代に生まれた幸福に、感謝を申し上げます。
そして、そんな私の重たい愛を、今後もジゴロの如くばさばさと裏切ってくださいまし。
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