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俺たちの近鉄バファローズ

私が近鉄バファローズのファンになったのは、小学生の頃だった。母が何気なく買ってくれた野球帽子がそのきっかけだ。岡本太郎のデザインが気に入ったらしく、母にとって近鉄かどうかはどうでも良かったようだ。兄は西武の帽子を被っていた。

当時、私は長崎の片田舎に住んでいた。ダイエーがまだ南海で、福岡に本拠地を移す前のことだ。九州にはプロ野球チームがなく、私たちはテレビや新聞でしかプロ野球の試合を知ることができなかった。

個性的な選手たち

近鉄バファローズは、優勝争いか最下位争いをするような極端なチームだった。しかし、その中には個性的な選手たちが多くいた。

  • 最多勝エース: 阿波野、野茂

  • 抑えの切り札: 吉井、赤堀、大塚

  • 不動の一、二番: 大石、新井

  • 活躍した外国人: オグリビー、ブライアント、ローズ

  • 日本人四番打者: 石井、中村紀

  • 安定の下位打線: 鈴木、金村、村上

監督は、後に大打者イチローを育て上げた仰木監督や、現役時代から応援していた元キャッチャーの梨田監督が務めていた。

1989年の奇跡

そして、事件は1989年に起こった。その年、エース阿波野、主砲ブライアントの大活躍、そして仰木マジックが炸裂して、2位オリックスと0.0ゲーム差、3位西武とも0.5ゲーム差という僅差での優勝を飾った。

その勢いのまま臨んだ日本シリーズ。相手は藤田監督の元、斎藤雅樹、原辰徳、中畑清、クロマティといったスター軍団でセリーグを制した巨人だった。

日本シリーズの激闘

第一戦の先発は、斎藤と阿波野のエース対決。この試合を制したバファローズは第二戦にも勝利。そして、第三戦。加藤哲、村田、吉井の継投による完封勝利で三連勝。

ここで、思わぬ事態が起こった。第三戦で勝利投手となった加藤哲が、試合後のインタビューで「シーズン中のほうが相手も強く、きつかった」とコメント。これが翌日の新聞では「巨人はロッテより弱い」という見出しになったのだ。

当時のロッテは最下位。1980年代後半は最下位争いの常連チームだった。この発言が巨人の選手たちの闘志に火をつけることになる。

加藤自身は後年、「当時のパ・リーグの打線はどこも凄かった。本塁打を打つバッターは嫌だけど、ジャイアンツ打線は本塁打があまり無いから組みやすい」という意味で言ったと釈明している。しかし、この「世紀の大失言」は、シリーズの流れを大きく変えることになった。

第四戦の巨人の先発は、スローカーブが持ち味の香田勲男。彼は私の地元、長崎の小さな町から巨人に行ったスターだった。エース級ではないにしろ4番手5番手の投手としてローテーションに入るような投手だった。そして私は香田投手のファンクラブにも入って活躍を応援していた。そんな地元のスターと贔屓のチームが日本シリーズで対戦するのだ。

香田投手は三安打完封勝利を収め、その日、地元の町にはお祝いの花火が上がった。

巨人が大逆転を収めた最終第七戦の先発も香田投手だった。相手投手は、あの「失言」の主、加藤哲投手。試合は、七本のホームランが出る乱打戦を香田-宮本の継投で乗り切った巨人の勝利。香田投手はシリーズ優秀選手に輝き、うちの町には再び花火が上がった。

6年生の私には、なんとも嬉しさと悔しさの入り混じった経験だった。

その後の奇跡

1995年、なんと香田投手は1989年日本シリーズのエース阿波野投手とのトレードで近鉄に移籍してきた。地元のスターが贔屓のチーム、しかも因縁のチームに移籍するとは、なんという奇跡だろう。

近鉄に移籍後も、先発やリリーフで活躍し、2001年に現役を引退した。引退後は、阪神の投手コーチなどを経て、現在は地元長崎の高校の野球部の監督を務めている。

近鉄バファローズの終焉

そして、我らが近鉄バファローズは、その2001年にパリーグの優勝を飾った後、ご存知の通り、2004年のシーズンをもってオリックスへの吸収合併という形で球団は消滅した。

応援しているチームがなくなるというのは、なんとも悲しいものだ。他のチームを応援しようと頑張ったが、どうしても熱が入らない。その後野球を見ることは少なくなり、今は周りまわって、すっかりラグビーの応援にハマっている。

偶然の縁

そのラグビー日本代表の稲垣啓太の妻、新井貴子が1989年の日本シリーズでも活躍したいぶし銀、新井宏昌の娘というのは、私の中ではまた一つの偶然である。さらに蛇足の話を書くと、1988年まで近鉄で活躍した吹石徳一の娘、吹石一恵は、地元長崎の大スター福山雅治の妻である。

今回は、笑い話もなく、ただただ自分の思い出話を書き綴ることになった。
「俺たちの近鉄バファローズ」というお話。おしまい。

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