『ガタカ』逆行する一対の二重螺旋

たまには好きな映画の話をする。20年以上の前の映画とはいえ、圧倒的ネタバレなので興味があれば先に観てほしい。


『ガタカ』(原題: Gattaca)は1997年に公開された映画で、DNAの塩基配列である G, A, T, C で構成されるタイトルに示されるように、遺伝子をテーマとした近未来SF。以下、簡単なあらすじ。
人工授精と遺伝子操作によって新生児の知能や身体能力、健康をデザイン可能となった未来、遺伝子的に優れた「適正者」と自然妊娠によって誕生した「不適正者」との間には能力的に、そして実質的には社会的にも大きな隔たりがあった。
「不適正者」として生まれた主人公ヴィンセントは宇宙飛行士になる夢を抱いていた。しかしながら、遺伝子によって能力を測ることが常態化した社会で、潜在的能力に劣り、健康上のリスクも抱えるヴィンセントにはその夢の実現は極めて困難であった。
夢を諦められないヴィンセントに残された唯一の選択肢は「適正者」になりすますことであった。DNAブローカーに接触し、その仲介によって出会ったのが、事故により脚が不自由になった元水泳選手のジェロームであった。ヴィンセントはジェロームと契約し、彼の生活を維持する代わりに血液や指紋といった生体IDを提供してもらい、優れた遺伝子を持つジェロームとして宇宙局「ガタカ」に入局する。ヴィンセントは不断の努力により遺伝子的なハンデを持ちながらも、優秀な成果を出し続け、ついにはタイタン探査船の宇宙飛行士として選抜される。

と、これが物語の背景と前半まで。映画としてはその後ガタカ内で殺人事件がおき、捜査の過程で偶然拾われた睫毛、つまりは不適正者ヴィンセントの睫毛から事件への関与が疑われ、徐々に追い詰められるサスペンスが物語のフックとなっている。

『ガタカ』は総じて地味な映画だ。派手なアクションシーンは一切なく、画としてもやや古臭く、暗い色調と彩度の低い色合いが多いように思う。音のダイナミックレンジも狭く、サスペンス的なスリルはあるものの、静かに物語が進んでいく印象がある。同じ90年代に『ターミネーター2』や『マトリックス』といったアクションもののSFが大きな成功を収めたのと対象的に、フィクショナルな設定から現実を照らし出す『1984』や『華氏451度』のような古典SFの趣を感じる。現に、90年代は96年にクローン羊「ドリー」が誕生するなど遺伝子工学の目覚ましい発展が目に見える形となり、それに伴う生命倫理上の問題も喧しく論じられた時代であった。まさに『ガタカ』の世界観である遺伝子操作によって誕生する優れた新生児、「デザイナーベイビー」問題も、議論の俎上にあるトピックの一つだった。

『ガタカ』のメインの物語としては、遺伝子という所与の限界(と見られているもの)に対する、努力の可能性を描いているといえるだろう。というと、捻りがなく如何にもつまらないが、それを納得させるだけのヒューマンドラマがある。その最たる例がジェロームの存在であろう。

ジェロームは水泳において世界一となるべくして生まれてきた。しかしながら、彼は終ぞ頂点をとることなく、水泳から身を引くこととなった。

"Jerome Morrow was never meant to be one step down on the podium"
(ジェローム・モローは表彰台を一つたりとも下ることを許されなかった)
ジェローム自身が述べたこのセリフだが、この meant to be というのは運命のようなニュアンスを含む言葉のようで、そうあるべくして作られたということを含意するフレーズのようだ。この言葉は本人の意志が介在する以前から遺伝子という形で自らの細胞一つ一つに刻まれた宿命、あるいは呪詛であったのだろう。
物語の中盤、ヴィンセントの宇宙飛行士選抜を祝したジェロームとヴィンセントのささやかな祝賀会の後、酔いつぶれたジェロームは交通事故によるものと説明していた脚の怪我が、実際には自殺未遂によるものだったとを明かす。

"I wasn't drunk."
(俺は酔ってなんかいなかった)
"What do you mean, you're not drunk?"
(酔ってない?何を言っているんだ)
"When I walked in front of that car."
(俺があの車の前に飛び出したときの話さ)
"What car?"
(車?)
"I stepped right out in front of it. I'd never been more sober in my life."
(その車の真正面に飛び出した。俺はその時人生で一番冷静だった)
"……Go to sleep"
(……もう寝ろ)
"I couldn't even get that right" "If at first you don't succeed, try, try again."
(そして俺は、それすら正しくできなかった)(※「一度で成功しなければ、何度でも挑戦せよ」)※英語の格言
"Go to sleep."
(いいから寝ろ)
"I'm proud of you, Vincent."
(お前は凄いよ、ヴィンセント)
"……You must be drunk to call me Vincent."
(……ヴィンセントと呼ぶなんて相当酔ってるな)

このシーンはこの映画の中でも個人的に最も好きなシーンの一つで、ジェロームの複雑かつ痛切な心情がよく現れている。
"I couldn't even get that right" の even(それすら)が指すのは、金メダルを取るべくして生まれてきていながら銀メダル止まりだった自分への失望から死を選んだのにも関わらず、その死すら全うすることのできないことだろう。ヴィンセントの襟首を掴みながら囁くように言う"If at first you don't succeed, try, try again."は、ヴィンセントへの祝辞であると同時に、自らの宿命を諦めた自分自身への失望と、最早それを試みることすらできなくなったことへの絶望、そして遂行することのできなかった自死の完遂を暗示する、万感の籠もった言葉に聞こえる。

セーレン・キルケゴールは『死に至る病』において、「死に至る病」とは絶望であると言った。このとき、死という概念は単なる一回性を持つ肉体的な死ではない。

死が最大の危険であるとき、人は生きることを望む。けれども、もっとずっと恐ろしい危険を学び知るとき、人は死ぬことを望む。絶望とは、こうして死が希望となるほど危険が大きくなるときの、死ぬことすらできないという希望のなさなのである。
 この最後の意味で、絶望とは死に至る病なのである。永遠に死ぬという、死ぬのに死なないという、死を死ぬという、この苦悶に満ちた矛盾、自己におけるこの病なのである。

セーレン・キェルケゴール.死に至る病(講談社学術文庫)(Kindleの位置No.329-333).講談社.Kindle版.
(kindleの引用ってなんか格好つかないな)

キルケゴールにおいてはキリスト教信仰によってこそこの病を克服し得るという、個人的には些か受け入れがたい主張をしているのだが、その宗教性を抜きにすればジェロームの心情に重なる部分は多いように感じる。

ところで、キリスト教(というより神)に関連して、『ガタカ』では冒頭で、以下の警句が提示される。

"Consider God's handiwork, who can straighten what He hath made crooked?" ECCLESIASTES 7:13
(「神の御業を見よ。神が曲げたものを誰が直しえようか」『コヘレトの言葉』7章13節)

旧約聖書からの思わせぶりな引用の割に、作中に信仰や宗教を印象づけるようなシーンは思い当たらない。それではどのような意図でこの言葉は使われているのだろうか?
少なくとも一般的な解釈として、この言葉には神学的な決定論(神によって物事の趨勢は予め決定されているというような考え方)の響きがある。ところが『ガタカ』に描かれた世界はむしろその神が決定していたはずの人の根幹、つまりは遺伝子を、操作するという宗教的な倫理観に対立するようなものだ。それに対して宗教的な倫理観から批判を加えるような様子もなく、一見してこの引用の意味はよくわからない。

この問題を考える上で、冒頭では上記の言葉のほかに提示されるもう一つの言葉が鍵となるように思う。

“I not only think that we will tamper with Mother Nature, I think Mother wants us to.” WILLARD GAYLIN
「我々は母なる自然に手を加えようとするが、母もそれを望んでいると私は思う」ウィラード・ゲイリン)

キリスト教にも様々な考え方があるようで、単に神がすべての運命を定めているのではなく、神は人に自由意志を与えており、人が自由意志に基づいて行動することを望んでいる、という主張もあるらしい。
この言葉がそれを意識したものかどうかは知らないが、宗教的なアフォリズムとともに提示されるゲイリンなる人物の言葉に、神殺し的な意味合いを読み取りたい。(宗教的には)傲慢にも母なる自然や神といった存在の意図を都合よく解釈して、科学という力によってそれを絞殺する人類を示している言葉だと考える。
『ガタカ』で描かれるのは、遺伝子によって人々がその優劣を、人生のすべてを評価される世界だ。それは遺伝子こそが決定因子となる決定論なのだろう。遺伝子が神に取って代わった世界とも言える。その意味で神は殺された。
神と成り代わった遺伝子について、「神が曲げたものを誰が直しえようか」ということが、『ガタカ』で描かれる主題ではないだろうか。

話をジェロームに戻す。
物語のクライマックス、ジェロームは自ら焼却炉に入り、焼身自殺する。そこでは宇宙船に乗り込むヴィンセントと、焼却炉に入るジェロームが交互に描かれる。
ボーディングブリッジを歩くヴィンセント。焼却炉によじ登るジェローム。白衣のスタッフによって閉められるエアロックの扉、自らの手で扉を締めるジェローム。横並びになった搭乗員のアップショットがドリーで流れる。ジェロームは本人が唯一獲得した勲章であり、宇宙飛行士には最早見劣りする銀メダルを自らかける。再びクルーが流れ、目を閉じたヴィンセントが映し出される。首からかけたメダルを少しの間眺めたジェロームは焼却炉のレバーに手をのばす。ロケットのノズルから噴射される炎。ロケットはまっすぐ空に向かって進み、焼却炉の燃え盛る炎の中で銀色のメダルが赤橙色に照らされる。

物語の王道的な道筋で宇宙へと向かうヴィンセントと、自ら存在を焼却するジェロームが、この炎によって重なる演出は圧巻だ。この映画で最も美しいシーンで、クライマックスにふさわしい。
その焼却炉はヴィンセントが日々体毛や垢、つまりはヴィンセントとしての遺伝子を処分する場所であった。「軽く人生二回分ある」ほどの遺伝子サンプルをヴィンセントに残して、ジェロームは自らを抹消すべきヴィンセントの痕跡として焼却処分した。
ジェロームはヴィンセントとの最後のやり取りの中で、「宇宙に行くまで開けるな」と言って封筒を渡す。中には手紙でなく毛髪があった。自らを不要なものとして処分し、ジェローム・モローを譲り渡した何者でもない彼が、単なる遺伝子のサンプルでなく唯一個人として存在した証を、もう一人のジェロームであるところのヴィンセントに渡したのだった。

ヴィンセントとジェロームは同じ人物として重なり合いながらも、対象的な存在だった。片方は不適正者として。もう片方は適正者として。いずれも絶望を抱えていつつ、一人は希望と期待を、もう一人は死と安寧を選んだ。作中の言葉を引用するなら、片方は夢を、もう片方は身体を互いに補っていた。

DNAを構成する2本のポリヌクレオチド鎖は互いに逆行しながら、相補的な塩基配列を持って平行に二重螺旋を描いているらしい。ヴィンセントとジェロームの関係は、そんな構造を思い起こさせる。

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