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お金について

年の近い職場の人と話をしていて、その人が「まぁ、お金がすべてではないから」と言った。よく聞く言葉。「お金がすべてではない」

でも、何か引っかって。翌日になってもモヤモヤしていて。

「お金がすべてではない」のは事実。でも、そういう言葉を出す人って、たいてい「お金がない」ことで困っている。「お金が稼げない」ことで困っている。「お金が使えない」ことで困っている。「お金がすべてではない」ということを、意地悪な言い方すれば → 言い訳にしている気がする。正直じゃないと思う。

みんなお金が欲しい。それはライフラインだから。

「無くては困る、あっても困らない、有り余っても困らない」それはライフライン。お金、ガス、水道、電気、インターネット。

「金がないと始まらない」、「お金がすべてではない」という言葉、よく使われるけど、すごく相対的だと感じる。お金と人生は密接、ガス、水道、電気、ネットも人生に密接。言い換えると、「ガスがすべてではない」「水道がすべてではない」となるのと同じ。「お金がすべてではない」というのも変な話。

「人生の価値をお金に置くな」という考え方。それは正解だと思う。でも、悪いことじゃない。お金に価値を置いて何が悪い?ファッションや映画鑑賞、パーリィやシャイニーなシーンに価値を置く人だっている。それがお金だからって何も悪くない。

結局お金ですべて得ているという現実は無視できない。さっきあげたライフラインもお金あってこそ。お金に価値を置くのではなくて、お金がないと始まらない。

自分のしたいこと、欲しい現実、欲しいもの、手に入れたいものはすべてお金を通じて得ているという現実。美しい景色一つ見るのも、移動費用がかかる、飯だって食う、喉が乾いたらお茶だって欲しい。

「お金がすべてではない」

確かに。でも、お金が欲しいけど、どう稼いでいいか分からないとか、頑張るのがイヤだとか、根性論がイヤだとか、稼ぐ能力がないとか、仕事ができないとか、色々理由はあるんだろけど、結局は理由は何であれ、自分自身への言い訳になっているんじゃないかと。

思い切って、「いや、死ぬほど金欲しいのよ!」とガツガツ、働くなり、株やら何やら、やれそうなことを始めて、目をランランと輝かせている方が、ある意味野性味あっていいような気もする。

なんでこんなこと書いてるかというと、自分はずっと貧乏だったから。その理由は「お金がすべてではない」とは思っていなかったものの、お金を持つことへ抵抗していたから。そうやってきれいごとを自分に並べていたから。

正直になると、人生が変わっていく。変化が速い。それも「うまくいってる」気分だけの変化じゃなく、もっと具体的な変化が。そうお金が入ってくるようになる。最初は戸惑ったけど、でも「そう、本当はこれが欲しかった」と思えるようになったら、もっと入ってくるようになった。

不足は不自由を生む。それによって苦しむのは自分。その不自由は自分でしか解決できない。お金が入るようになって実感したのはこれ。

人から借りた、貸してくれる人が現れた、そういう解釈の仕方もあるけど、それはあなたのお金ではない。あなたは自分でできることを自分でしなかったという自己嫌悪を増やすだけだと思う。

お金のこと、ずっと書きたかったけど、なんとなく迷ってて。でも、今日ここに書いたらスッキリ。またなんか思いついたら書こうかと。

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