「戦争と人間」と「永遠の0」

本日8月15日は終戦記念日と呼ばれていますが
ワタシ的には「敗戦反省日」と呼んでいます。
そんな日なので、以前・・・2014年に書いたブログですが読んでもらいたくて加筆して再投稿します。

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これを書いた当時、百田直樹氏とツイッターで論争・・・というほどのことはないけれど、百田氏の主張に疑問をなげたら、すぐにブロックされてしまったということがありました。もっと論争したかった(^_^;
それでこれは映画「永遠の0」と「戦争と人間」の比較になるんです。


BD『永遠の0』を見て。

①VFXがいまいち(がんばってるが)ゴジラ2014との比較すると・・・空中戦などたぶんワイヤーワークを一切使用しないでCGだけでやっていると思うが、かなりいい線行っている が炎と煙が妙に薄かったり・・・あのなんとかレンジャー戦隊ものを思わせるのが残念。

②アメリカ軍は卑怯な戦術を使うことを台詞に暗示。(日本の真珠湾奇襲はおいといて)

③なんか涙もろいぞ役者たち

④ 特攻と自爆テロを同一視する若者っている???

しかし、部下の航空兵を死なせたくない、という指揮官という設定がおかしい。宮部久蔵は反戦思想の持ち主か???彼は凄腕の名パイロットなのだが、部下の命は大事にしても敵機のパイロットの命はどう考えていたのか・・・戦争だから仕方がない・・・殺さなければこちらが殺されるから・・・の論理なんだろうか。

特攻の際、故障するとわかっている自分の零戦を部下と交換し(その部下は途中で故障して不時着して一命をとりとめて終戦を迎える)自身は特攻死。その部下に妻と娘よろしゅう、とメモ。

なんかおかしいぞズレてるぞ

映画『戦争と人間』に登場する 標(しめぎ)耕平という人物を思い出す。中国大陸で戦雲巻き起こっている頃、左翼活動のため検挙されさんざ拷問され挙げ句の果ては大陸の最前線に送られそこでさらに古参兵にまためっちゃいじめられ、それでも同僚の自分より体力のない二等兵をかばい、さらにいじめれるられるどころか半死半生のめにあわされ、中国人捕虜を銃剣で突き刺す訓練を拒否してまたまたぼこぼこにされるなど『戦争と人間』特に第三部は標耕平(演 山本圭)が殴られ蹴られに終始している印象なのだが、一本筋は通っている。それに比べると宮部久蔵、部下をかばい上官に殴られることはあっても「臆病者」として大日本帝国の兵士として暗に認められていたのはやはり熟練した操縦技術のおかげだろうか?もし彼が標 耕平のように目隠しされ柱に縛り付けられた中国人捕虜を銃剣で刺し殺せと命令されたら彼は拒否するのだろうか?

ワタシがツイッターで百田尚樹に直接、氏の対談での発言について質問したんです。

百田氏「個人の幸福追求も、まず自分の属する国家社会が安定していればこそです。」

この発言のなか「安定」とはどういう状態を指すのか?それは内部での対立も自己吟味のための問題提起もない、またはあってもそれらを力で黙らせる国家のことではないか、と言う意味の質問をしたらとつぜんアクセスブロックをかけられてしまい対話はそこで終わり(^_^;

宮部久蔵のパイロットとして素晴らしい腕前の一例として映画の中で次のように描かれている。宮部久蔵の零戦の背後を取った敵機がいくら機銃を発射しても宮部の零戦には当たらないのだ。どういうことか?宮部はまっすぐ飛んでいるよう見せかけて実は少しずつ進路をずらして飛んでいるのだ、だからまっすぐ撃った銃弾がすべてそれてしまうのだ、と言う。まことにまっすぐのはずが微妙に曲がっていく、これは零戦の飛行だけではないのだ。


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