なにげない日常が一番

なにげない日常が一番

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春と夜

花咲き誇りメジロが踊り あたたかな空気が頬を撫でる 生を拒む灰色の雲は 過ぎ行く今に滅される 不意に来たる嵐すらも 命の芽吹きを巻き起こす 堪える辛さを抜け出して 幸せ探しに夢中になる 花の香り満ち美蛾が舞い つめたい露が頬を撫でる 僕を包む日々の灯は 遠い未来まで照らしぬく 両手で迎えた安寧は 不断の光を重んじる 続く日常を守るために 手中の幸せで心満たす

    • あの日、ラオスで。 【1】

      前置き みなさんごきげんよう。日常さんです。就活で多忙極まれりといったところなのですが、ES(エントリーシート)を書いている時にある記憶が蘇ってきました。せっかくだから、記録しておこうと思います。 え…? どんな記憶かって…? ラオスいった時のあれやこれですね。はい。 まあ、あの時はあり得ない体験が色々あったわけです。 あまりにも多いので、何回か、小分けにして書いていくことにしますね。 ラオス行きの背景 当時の私は、大学で学部生として農学や工学を学ぶ青年だったわけで

      • 失われる色の名前

        あなたが目を通して眺める世界は、一体どのような色で溢れているだろうか。人によって色の見え方は違うものだから、確たる正解があるわけではない。だがそれでも、連続的な様々な色に溢れている場合が大半だろう。そして、私たちは多様な色を表現する方法を失いつつあり、これこそが、人間が避けるべき悲しき宿命の一つなのかもしれない。 以下の文章は、色の研究や色を使った活動に携わる方々にとって、お見苦しいものかもしれない。本稿は、様々な景色、生き物、文化を見てきた個人的な経験に基づくものである。

        • 生き辛さへの部分的考察

          自分が何者なのかを知ることは難しい。当然のように思われるかもしない。しかしながら、実はこれこそが、多様性を認める社会における生き辛さの根底を成す要素ではないかと思う。 私は一体何者であるか。そう問うたところで、真の自分が判明することはまずない。無論、私の考える、あるいは他者から見た私という写像は得られるだろう。だがこれは、あくまで私を含む誰かが後天的に得たもの、すなわち経験や理念に基づく相対的な評価によるものだ。「真の私」なるものは永遠に得られず、「私の写像」の形成とともに