面白い人=いい人

ツイートの主張自体は割とどうでもいい(失礼)のだが、バンギャの逸話とチャラ男の話は興味を惹いた。この「面白い人=いい人」という言い回しはすごく的を得た表現だと思ったのだ。

すぐに連想するのは学校とお笑いだ。思い起こせば小中学校くらいの頃は、学校という空間で支配的だったのはこの「面白い人=いい人」の価値観だったように思う。弟と私はディズニーのピーターパンが大好きで、当時VHSのそのビデオを時折見返して、フック船長がワニに追いかけられるシーンで笑い転げていた。お坊ちゃまくん、幕張、すごいよマサルさん、ギャグマンガ日和など、下ネタ満載のギャグマンガは大流行りしていたし、何ならグラップラー刃牙はギャグマンガとして消費していた。お笑い番組も人気を博していた。先日亡くなった志村けんのバカ殿は代表的なものだろう。コンテンツのみならず、面白いヤツは人気者だったし、気に入らない教師を面白おかしくコケにして留飲を下げるようなことは日常茶飯事だった。面白いこと、笑えることに価値があり、面白いこと、笑えることをする人・できる人は尊敬を集めていた。「面白い人」はイコール「いい人」だった。この「面白い人=いい人」の価値観は、スクールカーストやモテ非モテ、何ならイジメにも関係している価値観じゃないかと直観した。

今時の子供もああいったギャグマンガやお笑い番組を見て喜んだりするのだろうか。まあ、三歳になる姪もうんちが大好きだし、時代によらず子供に好まれるものなのだろう。私自身は中学を終える頃から段々と興味を失っていったように思う。今では年末年始に友人がガキ使の話をしているのを耳にするくらいで、自分から進んで視聴したり読んだりすることはない。

なぜそうなったのか。振り返ってみれば、おそらく「面白さ」というものに幅ができたせいだと思う。子供の頃から本の虫だったことは多分に影響しているだろう。本を読んで、笑いの面白さではなく、知的な面白さというものを知った。児童文庫に始まり、家にあったシャーロック・ホームズや誰それのエッセイを読み、図書館で推理小説や時代小説を借り、叔父が趣味で収集していた何十年も昔のSF小説を段ボールから読み漁った。音楽にも興味を持った。毎週日曜に小林克也のラジオ番組を聴いて気に入った曲やアーティストのCDを買った。際限がないのでこのくらいにしておくが、他にも色々あったと思う。部活(スポーツ)とか。面白さはギャグやお笑いだけではなくなった。ギャグやお笑い以外にも、面白いことは世の中にたくさんあった。

笑いというのは刹那的なものだ。初めての時はそれはもう面白い。けれど、二回目、三回目となると可笑しくなくなる。笑ってばかりもいられないし。ずっと面白おかしいことを考えるのも疲れる。他にも面白いことがあるのに、笑いにばかりこだわるのも頂けない。「落ち着く」とか「大人になる」とか言われることには、こういう学びの意味もあるのだろうと思う。

自分自身がそうだったので、他の人間も大概同じようなものだろう、と思ってしまうのはままあることだ。世の中色んな人間がいるもので、当然と言えば当然なのだが、どうも皆が皆そういう「落ち着いた」大人ばかりではないらしい。経験を積む内、「面白い人=いい人」の価値観のまま、無反省に年を重ねてしまった人も意外といるのだと気が付いた。白状するが、そういう類いの人はどうしても「幼稚」で「つまらない」人間に映る。面白おかしいのは悪いことではないけれど、それ一辺倒では相手をするにも色々と問題がある。この手の人は、こちらの価値を面白いかどうか、笑えるかどうかで測ろうとする。違う面白さの話はなかなか呑み込めない。無闇に他人をいじったり、TPOに合わない下品な発言をしたり。本当に面白おかしければいいものの、もちろん常に面白おかしいわけじゃない。愛想笑いをして、相手が勝手にすべったフォローをこちらがする羽目になる。まあ、笑いに限った話じゃない。なんであれ一辺倒な人はこうして煙たがられる運命だろう。

友人にこの話をした折、お笑い芸人の岡村隆史は、典型的な「面白い人=いい人」の価値観のまま年を重ねてしまった例だ、と言われた。先日の炎上騒ぎはまさに、と思わせる。面白いことには価値がある、俺は面白い、だから価値がある。価値があるのだから、ちやほやされて当然、モテて当然、というわけだ。チャラ男が言う通り、そんなのに引っかかるのは同じ面白さ一辺倒の人間しかいないと思う。「俺はこんなに面白いのに、なんでガッキーみたいな美人が振り向いてくれへんねん!!」そして鬱になる岡村。チャラ男は自分が何をやっているかわかっているから、いつでも辞められて、鬱にはならない。岡村は反省も自覚もないし、だから辞められず鬱になる。本人も別に、煙たがられるような人になりたくてなったわけじゃないだろう。可哀そうだと同情はする。

チャラ男は岡村隆史とは違って、少なくとも自覚的だ。だから良いわけではなく、知りつつ利用している点ではむしろ邪悪だと思う。お笑い芸人で言えば、ロンブー敦や島田紳助なんかは、たぶん自覚的で、明確に利用してる邪悪なタイプだろう。島田のお笑いに対する考察はかなりしっかりしているらしい。無反省、無自覚な人間はこういうタイプにカモにされる。チャラ男にヤラれる女の子然り。

この「面白い人=いい人」の価値観に対して、自覚的かどうか、利用している(できる)かどうかで、けっこう態度は割れる気がしている。色々と考えてみると面白い。

最後に。批判的に書いたけれど、小学校低学年以下くらいの子供が重視する面白さは、表現についてはかなり本質的な気がしている。ピーターパンは今見ても確かに面白い。三歳児に付き合って砂場で遊ぶのも、確かに面白い。刹那的な笑い以上のものが確かにある。大人になって、他にももっと色々面白い遊びを知っている、というだけで、子供の遊びも意外と馬鹿にできないと思う。それが今回書いた話になってしまうのは、たぶん二次性徴あたりで捩れるんじゃないか、とか。面白いってなんだ、と考えるのは、それ自体面白いことだと思う。

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