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創作落語会=できたてのほやほや?=令和2年2月11日お江戸日本橋亭

演目
楽屋一同:オープニングトーク
林家八楽:穴子でからぬけ
鈴々舎馬桜:シュール
鈴々舎馬るこ:コンプライアンス警察
三遊亭萬橘:水に流して
古今亭駒治:ラジオデイズ

 青灰色に沈む高層ビルの谷間で隊を作る丸い赤提灯。開場10分前には到着したが、すでに10人ほどの客が列をなしている。
 ガラス戸の向こう側で主催者たる鈴々舎馬桜師匠がくるくる忙しなさそうに動き回る。同じ会場で昼に2つの落語会をやり終えた後だというのに、寒風に晒されて足を小刻みに動かす客にチラシを配り、消毒液がある旨を呼びかける。師匠は今年、古希を迎えるという。

 時間をやや前倒して開場。110円で買えそうなクラシックのスタンダードが流れる中でぞろぞろ入る客は40でこぼこか。同日の末廣亭で幕を開けた神田松之丞改め神田伯山の真打昇進襲名披露興行の盛会ぶりに思いを馳せる。伝聞に過ぎないが、前夜20時から場所取りを始めた者もいたとかいないとか。2017年までは「成金の中では人気のあるメンバー」という認識であったし、その名が演芸界から逸脱し、世間に敷衍し始めたのは2018年の中頃であったと記憶している。演芸界の潮流を変えてしまったたった1人の講釈師の、仄暗さの中に獣に似た眼光を湛えた双眸に睨みつけられたのは昨夏の浅草であった。たまたま空いていた最前列の中央の席でがなるような声色に襟首を掴まれる好機は、もう二度と訪れないのだろう。

 定刻と共に馬桜師匠が登場し、会の概要をー出演者それぞれのギャラの配分は集客数と比例するといったー説明した後、他の演者が舞台へ。上手から黒の紋付の馬桜師匠、おそらくは女性用の反物を男着物の単衣に仕立てた馬るこ師匠、こげ茶の縞模様の着物の駒治師匠、鼠色の長着の萬橘師匠。前座を務めた林家八楽さんも含めて演者の8割が落語協会という催しだが、1人円楽党からの参加となった萬橘師匠はよそゆきの表情を浮かべておらず、むしろ今日の出順を決める方法を事前に聞いている聞いていないという瑣末なやり取りを寸劇に変えるだけの余裕がある。馬るこ師匠に「今度(2月下席)末広亭でトリ取るんでしょ?」と水を向け、「ここから見る景色すごいですよ!」と客観性を損なわない視座の高さも相変わらず。なるほど、70手前の大御所、牡牛のごとき巨漢の男、空を貫く煙突に似た長身痩躯、その3人を眺める総白髪の41歳本厄が並ぶ図は、なかなかどうして面白い。

 疲れの色を滲ませる馬桜師匠は一番手に決定。3人は鍔迫り合いと見紛うほどの白熱したじゃんけんで順番を決める。何せ「=できたてのほやほや?=」という副題通り、なるべく鮮度の高い創作落語をかけることを眼目とした会なのだ。いかなる百戦錬磨の一騎当千であっても、なるべくなら後に、しかしトリは避けたいという本音が露わになる。馬桜師匠によれば「本編が8分しかないんですけど」と泣き言を漏らす者もいたとか。

 かくてこの日はいの一番に負けた駒治師匠がトリ、二番に負けた萬橘師匠が食いつき。八楽さんも交えての撮影タイムを終えて一旦はけた後、乱れていた袖の暖簾をぴしりと整える萬橘師匠の目端の効きように感嘆の息が漏れる。なので楽屋から「俺の客だよ」という声が洩れ聞こえたのはご愛嬌。

 開口一番は林家八楽さん。林家二楽先生の弟子で本業は紙切りなのだが、この日は「穴子でから抜け」で一席。「兄ちゃん兄ちゃん、1年てえのは13か月だよなあ?」と王道中の王道の小噺を矢継ぎばやに繰り出して本編へ。西洋に置き換えれば「バーベット」のような謎々遊びを切り取ったごく短い噺である。卵に似た丸顔、光沢と張りのある肌、親指でぐいと墨を引いた目の若人が、綿菓子を喉で溶かすかのように甘い声の与太郎を演じる。余技ゆえの落ち着きなのか、ハナからおしまいまで淡々としてそつがない。

 二番手に鈴々舎馬桜師匠。本来であれば主任を担うべき先達だが、浅黒い肌とつるりとした頭の下の目には若干の疲労感が滲み出ている。場面が違えば恥とされるであろう姿も全て晒され、高座の芸として結晶する。つくづく落語は恐ろしい。
 軽くさらりと口演するのは「シュール」。客から募った3つの題を盛り込む「三題噺」によって作られたという。物語の定型という構造から逸脱し、新たな様式美を俯瞰する内容は、身も蓋もないことを言えばシュヴァンクマイエルの『ルナシー』あたりを想起させるが、それを唯1人で、かみしもを切り、所作やほんのわずかばかりの声調の違いで人物を演じ分けることで、芽を幹に、それを枝葉に培養させていく凄絶さを目の当たりにした。光のない目の患者のちぐはぐな質問に戸惑う医者の緊迫感が、疲弊した馬桜師匠と地続きであるが故に奇妙なリアリズムを有し、安部公房の短編を読了した気分になった。誰もいなくて真っ白で暗い、聴き込むことも聴き流すこともできる乾き。

 三番手は鈴々舎馬るこ師匠。薄黄色の地に茶色の薔薇が舞う派手な衣装を裏切らない陽の空気感を湛えた人で、しくじり安打製造機の前座の逸話に始まり、真打ち昇進の2017年から今に至るまで毎年末広亭のトリを取れている理由を「お席亭のカラオケでタンバリンを叩き続けたから」と自虐的に暴露して、客席を明るくさせる。汗だくの風体から放たれる一語一語が花火のようにパッと開く。
 ほんの1月前に出来たばかりという「コンプライアンス警察」は、演題通り古典落語に行きすぎた現実と現代のモラルを持ち込む警察の滑稽さを描いたもの。演じ手が異なれば「ああはいはい、どうせこっちがいくら社会的規範とか倫理に則って訴えても『ポリコレ棒!』てニヒリズムに落とし込むんでしょ?」と鼻白むものになってしまいそうだが、古典落語の「どんな腑抜けでも掬いの手が差し伸べられる寛容さ」への切なる憧憬に振り切って見えるのは、馬るこ師匠特有のフラなのかもしれない。「初天神」の金坊を「コンプライアンス警察だ!」と宣告と共に容赦無く押さえつける冷徹さ、与太郎も泥棒も廓噺も徹底的に排除される強引さ、「古典落語がどんどん綺麗になっていくぞ」という一言に込められた悲哀が、うろ覚えなのかまだ固まっていないのか、時折間延びするセリフとバツの悪そうな苦笑いで和らいで綻ぶ。「紙入れ」のおかみがコンプライアンス警察好みの女性なのか否かでジャッジが変わる理不尽さ、ピルの認可に躊躇した挙句バイアグラは高速で認めた男尊女卑社会を思い起こし、1つの噺に込められた多層性に息を飲んだ。馬るこ師匠は絶対そこまで考えていないのだが。

 仲入りを挟んで萬橘師匠。二つ目のきつつき時代には稀に新作も口演し、ボクシング愛が炸裂するオリジナルの地噺「マイク・タイソン物語」こそ持ちネタとしてあるものの、ほかの演者とは違って古典の国の住人である。古典の骨格を愚直に磨き上げ、リアリズムの血で躍動させる天才がこの難題にどう挑むのかがこの日の主題の1つであった。
 『第92回アカデミー賞』授賞式で「5秒も歌っていない」松たか子を過剰に取り上げるマスコミへの皮肉と、自身の人生のためにアメリカ国籍を取得したカズ・ヒロの発言への気落という矛盾を孕んだ人間くさいマクラから「水に流して」に入ったのだが、これが本当にくだらないのである。常日頃から多くの人々に「ロジカルな思考の天才」と賞賛されている師匠が、持ち前の知性と理性と論理性を放り投げ、ナンセンスさの縦糸と横糸で織り成した噺である。夫との離別を覚悟し、空港行きのタクシーに乗った女性リツコの涙の訳を運転手が訊ねる場面から始まり、リツコの回顧する記憶が展開されるのだが、噺が進めば進むほど関節が外れ、腰砕けになるようなしょうもなさである。しかしそれらが全て古典の筋書きに通底する、自分たちにないとは言い切れない共振しうるばかばかしさばかりなので、どうしても無様に笑い転げてしまう。また同時に師匠が演じるリツコの品の良さや柔和な所作に目を奪われる。歌舞伎を好む噺家特有の、花が綻ぶような指の運び方、首の揺らし方。うっかり忘れてしまいそうになる古典落語の強さと、師匠の穏やかな私生活のパッチワークと言える、優しくほのぼのとした一席であった。

 古今亭駒治師匠。オリジナルの新作を主軸とし、鉄道好き噺家として名高い人である。
 鉄道好きを買われて舞い込んだ仕事と営業先のハプニングから、ラジオに夢中になる10代の男女の青春群像劇「ラジオデイズ」をかける。ラジオのハガキ職人を目指す少年が、同級生の少女が隠れハガキ職人であること知ったことから巻き起こる騒動を綴ったものなのだが、地方ラジオ番組とそのリスナーの独特いなたさを完璧に表現するきめ細やかな技巧が堪らない。時代設定はSNSが隆盛する少し前なのだろう。閉塞感が横溢する地方ならではの、電波の向こうの芸能人にハガキを読まれるという奇跡を夢見る少年少女のきらめき、しかしその芸能人がいわゆるスターと言い切れないポジションであるがゆえに増幅されてしまう覆面性、ハガキ職人の少女が学校でも人気の美少女であるために生まれる誤解とすれ違い。ささやかな日常が演芸の力でもって万人の心を動かすドラマとなる感動を実感した。何よりも登場する有名ハガキ職人のラジオネームが「ファンシーストロベリー」「小野妹子」「世界の山ちゃん」で、共感性を根っこから揺さぶる再現度の高さに打ちのめされた。

 結びは出演者一同の三本締め。古典は完成され尽くした様式をどれだけ遵守する、あるいは壊していくという起点から始まるが、新作はまず様式美をガワから眺望する視点の違いに胸を打たれた。まだまだ勉強が足りない。

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