執着
人間は何かと執着してしまう生き物である。
仏教でいう執着には大きく二つに分けることができる。
一つは「我執」、もう一つは「法執」である。
「我執」とは自分自身にとらわれる心である。
「我」とは何か。
一説によると、人間の身体は骨や臓器も含め六か月でほぼ新しい細胞に生まれ変わるといわれています。
そんな入れ替わりの激しい身体が「私」だと言われてもいまいちピンときません。
顔も年々老化して衰えていきますので、これが「私」の顔だと決まったものは無いでしょう。
そうやって突き詰めて考えてみますと、「私」といわれるものはどこにもないのです。
「私」とは様々な因縁が重なって、一時的に表れている「動き」そのものだといえるでしょう。
「私」は固定された実体のあるものではなく、日々変わり続ける「動き」なのです。
そのことを知るだけで、「私」への執着心が少しだけ減るかもしれません。
「法執」とは自分以外の存在にとらわれる心である。
「私」が「動き」そのものであれば「私以外のもの」も同様に因と縁が揃って、一時的に表れている「動き」に過ぎないと言えるでしょう。
例えば、海岸に打ち寄せる「波」はまさしく海の水から派生した姿ですが、時が経てばまた元の海の水に戻っていきます。
それと同じようにすべては因と縁が重なって生じた一時的なものにすぎないのです。
素粒子が原子になり、分子になり、「私」や「私以外のもの」が生じ、やがて分子になり、原子になり、素粒子に戻っていくのです。
お釈迦様は私たちの苦しみの原因は「執着」であるといわれています。
では、「執着」の正体を知り、「執着」が苦しみの原因だと分かった今、私たちは「執着」を離れることはできるのでしょうか。
結論から言うと、お釈迦様が「執着」を離れなさいと説いたのはある種の「方便」だったといわれています。
人間である以上、大切な人がいなくなれば心は動きますし、財布を無くせば少なからず動揺します。
「執着」は苦しみの原因ではあるが、「執着」を抱えたままでも私たちは幸せになれると仏教は教えています。
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