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パリ2024開会式という「祝祭」のメッセージ

パリオリンピックの開会式が「祝祭」としてどういうメッセージを発出しようとしていたのか、何故今自由・平等・博愛(友愛)という共和国建国の精神だったのか、という観点からの読み解きと感想をシェアしたいと思います。


自由・平等・博愛(友愛)という共和国建国の精神をオリンピックの開会式で表現する意図

日本語のSNSを見ていると特に生首マリー・アントワネットのシーン、国際的には最後の晩餐のオマージュ(演出家によるとギリシャ神話の神々の饗宴のオマージュとのこと)に対して様々な意見があがっていますが、全体の構成を通してみると今回の開会式のメインテーマは疑いようがなく自由・平等・博愛(友愛)というフランス共和国の精神、ひいては民主主義の理念で、それをsororité(シスターフッド)という現代的なテーマや、sportivité(スポーツマンシップ)festivité(祝賀)といったオリンピックに深く関わるテーマと絡めて再提示するものでした。

そもそも大会公式ロゴはフランス共和国の擬人化であるマリアンヌ(自由の象徴でもある)、マスコットキャラクターは自由への開放運動の象徴であるフリジア帽、そして革命記念日(7月14日)の聖火リレーから続く開催日程と、全てがこのモチーフに絡めて展開されています。

フランス語ですが公式チャンネルでのロゴの解説。ロゴは3つのモチーフ、すなわち①金メダル、②炎というオリパラの象徴、そして③マリアンヌの3つのテーマの融合だとしています。マリアンヌについてはビデオ0:32から。

フランス革命により市民はアンシャンレジーム(旧体制)から解放され、勝ち取った自由や平等はフランス人権宣言に結実し、それが現代の民主主義の礎になっています。ただし革命後、市民がいきなり価値観を共有できたわけではなく、歴史的にも揺り戻しなどがありながら徐々に国民国家が形成されていったのですが、その過程ではマリアンヌという表象や祝祭が大きな役割を果たしていたし、戦略的に活用されていたと言われています(特にパリから遠い地方への浸透に際して)。

筆者の学部時代の指導教官はこの国民国家の形成と表象の関係を研究されていました。残念ながら私はその後フランス関係からは全く離れてしまい、当時勉強したことを殆ど忘れてしまった上に最新の研究動向を全く追っていないのが残念でならないのですが、下記に取り急ぎネットで拾える関連するリンクを貼っておきます。
・西川長夫「国民(Nation)再考 ーフランス革命における国民創出をめぐってー」(PDF直リンク)
浜忠雄「マリアンヌの表象」(PDF直リンク)

今また国際情勢が流動化し、世界的に価値観が揺らぎに揺らいでいる中で、現代の祝祭とも言えるオリンピックという機会でこの一連のモチーフを持ち出し、現代的な文脈も含めて再解釈を提起してみせる、というところに、強い意志を感じました。

「権力」としての商業主義へのアンチテーゼ

と同時に気になったのは、国家という現代の「権力」そのものが革命の精神を賞賛し、そもそも既存の権力構造へのカウンターを意識して発展してきた現代アートやカウンターカルチャーを大量に演出に取り込み、利用することの壮大な自己矛盾でした。そういう意味では国威発揚型のショーの方が構造はわかりやすい。

これをどう考えれば良いんだろうか?と見ているうちに、クライマックスで五輪旗が逆さまに掲揚されるに至って「もしや?」と考えたのが、IOCに象徴されるまた違う権力性を痛切に皮肉ることで、国家権力という自らの権力性についてはあえて相対化したのかもしれない、という仮説でした。

The Telegraph ”Olympic flag upside down, North Korea mix-up and wardrobe malfunction: Opening ceremony blunders”より拝借。

フランスはギリギリでロジの辻褄を合わせるところが大いにあるとはいえ、儀典には厳しく、流石に軍人が掲揚役を担うセレモニーの儀典上のクライマックスにもあたる場面で上下逆に掲揚するというミスはちょっと考えづらい。そう一度疑問に思い始めると、Imagine(この曲はIOC指定曲で必ず入れなければいけない)演奏時にピアノが盛大に燃えているという演出は途端に意味深に思えてくるし、冒頭クラフトマンシップのストーリーの流れで長々とヴィトンのモノグラムを入れてくるというシーン(個別ブランドのロゴNGはIOCが定めたスポンサーシステムの象徴的なルール)などが思い出され、フランス建国の精神を魅せるという表向きのメッセージの裏で、実は超商業化したオリンピックが象徴するグローバル資本主義に対する痛烈な皮肉を効かせたショーでもあったんじゃないか、と。

勿論IOCとの調整を経てこの内容になっているわけで、実際には理由がついているのでしょう。Imagineを歌ったJuliette Armanetの直近のアルバムタイトルは「Brûler le feu(火を燃やす)」だそうですし、戦火がやまない国際情勢を踏まえての演出とも言える。LVMHにしても、直接ブランドロゴを出したわけではないので、マリオと同じ扱いなのかもしれない。それでもこのギリギリを攻めてくるところに革命の精神を感じたのです。いや考えすぎかもしれないけれど。

祝祭を市民の手に取り戻す試み(民主化)

革命の精神や権力へのアンチテーゼを感じたもう1つの理由が、「普通の人」への回帰でした。

まず、超高額で限られた人しか見れないスタジアム型から、史上初めて市内開催を行ったのは、より開かれたセレモニーにするという意志の現れ。これは様々な機会でコミュニケーションされてきました。そして蓋を開けてみれば、場所だけでなく、セレモニーの演出もVTRで見せる部分と現実の融合ありき。その場にいないと見れない・体験出来ない形から、映像やネットがあれば楽しめる、むしろそれでないと全容がわからない形へ。Le Monde紙によると、公共放送France 2での視聴率は82%、約2200万人が視聴したとのこと。そのくせ放映権の関係で事後に世界中で自由に見れるわけではない、というところに、これもまた構造に対するチャレンジを感じます。

なおスポンサーメディアではなくSNSで見せることを前提に設計する姿勢は聖火リレーから徹底しており、インスタグラムやYouTubeのアカウントでは観光PRも兼ねた美しい映像と、多くの市民が参加し楽しんでいる姿をあわせて見ることができます。

演出も、スーパースターだけでなく普通の人達を輝かせる魅せ方が際立っていました。そもそもレディ・ガガやセリーヌ・ディオン、聖火リレーはBTSもいたのですが、フランスだけでなく世界中のタレントを集めて、それでいてフランスの文脈にしっかり位置付けてフランス的なものを表現するための存在でしかなく、スターはあくまでショーの一部(そこに負けないスターは流石の一言ですが)。

聖火リレーの時には2019年に火災に見舞われたノートルダム大聖堂の前でパリ消防隊の人たちが体操を披露し「おっ」と思いましたが、開会式のVTRでも、復旧作業を行う現場作業員に模したダンサーが工事現場で舞っていた。

Le Parisian紙"Flamme olympique à Paris : fêtée par les pompiers, Notre-Dame « laisse le cauchemar derrière »"より

冒頭ジダンがパリの街中を駆けるシーンではカフェの店員やメトロの乗客を中心にしたパリの日常の風景が主役で、セーヌ川岸でのパフォーマンスも、個性を消した一足乱れぬマスゲームじゃない。群舞でも1人1人のパフォーマーに焦点が当たっていました。演出も、カメラもそういう撮り方。そもそもセレモニーのガイドは顔のわからない仮面の男です。

内容自体もハイコンテクストなものだけでなく、パリの屋根上を身軽に駆け回るダイナミックな映像、オペラ座の怪人やノートルダムの鐘、フレンチ・カンカンといった誰もがフランスだとわかるエンタメ、モナリザを盗むミニオンズ、エッフェル塔のレーザーショーやセリーヌ・ディオンの愛の賛歌など、シンプルにショーとしてワクワク楽しめるコンテンツもふんだんに取り入れ、バランスを取っていました(むしろ時間的にはその方が多い)。

一方で、そのショーのため市内の交通封鎖など市民は生活上の不便を甘受せねばならず、現代の労働者たる2000人を超えるパフォーマー達は待遇に課題があり直前までストが予定されていた、というのがまた現実社会との対比となって、盛大なパンチが効いています。

というわけで、これが選手中心の開会式だったか?と言われればNOだし、グローバルに伝わりやすい開会式だったか?と聞かれれば極めてフレンチ・テイストで、当然批判もあるでしょうが、批判を前提にした上で、オリパラという巨大なイベントを「平和とスポーツの祭典」という綺麗事で終わらせず(高額な開催コストと環境負荷、各国格差など実際はそれだけではないことは皆知っているわけで)、批判もろとも吞み込んで貪欲に利用しようとする姿に、祝祭を市民の手に取り戻し、民主主義の理念のもと前進する、Ça ira! というメッセージと、近代オリンピックの父クーベルタンの祖国フランスの矜持を強く感じた開会式でした。

と同時に、これが演出された祝祭である以上、「描かれていないもの」にも注目しておく必要があるのでしょう。翌日の民間調査機関による世論調査結果では市民の約85%が開会式を好意的に受け止めたとのことですが、フランスのここ数年の国内情勢を考えれば祝祭を国内がまとまるための機会に使いたいという政治的意図は必ずあるはず。そこであえて描かないテーマを残す、そのしたたかさもまたフランス。演出チームと政治側とIOC、その調整過程も気になるところです。

閉会式では伏線の回収がありそうな気がしています。

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