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『東京喰種』論~葛藤と悲劇の物語~

人間を人たらしめている要因は何なのだろうか。

姿や形で、私たちは人間を人として捉えている。けれども、そんなことないのではないか。姿はどれだけ人らしくとも、社会がその性質を人として認めなくなった瞬間、彼ないし彼女の存在を私たちは人として認知することができなくなってしまうのではないか。

私達は自らのことを人間であると信じている。だが、それが明日になって、カフカの『毒虫』のように、まったく別の何者かになっていたとして、はたして取り乱さないでいられるのか。

このような想像力から、この作品は生まれている。人の姿形をもった、しかしその性質が根本から異なる存在、「喰種」と呼ばれるもの達と人の関わり合いの物語。それが『東京喰種』である。

喰種は人間と同じ姿形を持ちながら、しかし人と同じようなものを食することができない。彼らが食べることができるものは、人の血肉のみなのである。人は喰種たちに捕食されることを恐れ、彼らを見つけ出し狩り、殺すための組織CCGを生み出す。

喰種と人間は同じ社会に生きており、喰種は身を隠し、人は彼らを見つけ狩る。そんな異常な世界設定が本作の特徴の一つであると言える。

この作品で重要なポイントに、喰種と人間との間の対話不可能性を挙げることができる。人間も喰種も同じ言語を持ち、彼らの間には対話の機会がたびたび生じる。しかし、人を食べてしまうという喰種のカニバリズム的性質により、彼らの間には互いを理解しようという言葉が交わることが原理的に不可能なものとして描かれている。

命乞いも、怒りも、苦しみも、憎悪も、想いを伝えようとお互いがどれだけ足掻こうとも、意思疎通はごく一部の例外を除いてありえない。ある意味、言葉の敗北が徹底的に描かれていると言えるのだ。

また、本作は終始一貫して弱肉強食の思想を表現され続けているという特徴もある。基本的に、物語というものは、劇的なバックグラウンドや強いエピソードを持ったマイノリティ的な弱者達が勝者になりやすい構造を持つ。

だが、『東京喰種』では、そうした劇的な物語を持った弱者としての登場人物たちが、ただ快楽のままに生きている強者により蹂躙される展開が多く描かれる。通常なら賛美され勝利するはずの、弱者の美しい物語がむしろ積極的に淘汰されていくのである。この作品において、弱者は正義にはなり得ない。

対話不可能性と弱肉強食の思想によって、『東京喰種』はその悲劇性を確固としたものにしている。この悲劇性の根幹には、「人とは何なのか」という問いが隠されているように私は思う。

人を人たらしめる要素。それは、人間の集合体(社会)が、その存在を「人である」と認めるかどうかの問題でしかないのではないか。言葉を操れる・同じような身体のパーツを持っている……突き詰めればもう少しはあるのかもしれないが、所詮人というものは、その程度の曖昧な価値観でしか判別されない。

現代はヒューマニズムが跋扈している時代だ。人間至上主義によって、自然は淘汰され、人間賛美の文化作品が数多く生み出されている。人が人であることを前提とした、様々な物語や仕組みが組み上げられている時代であると言えるだろう。

本作は、そんな時代が象徴している、人が人であることの自明性に対しての強烈な懐疑から始まっているのである。

本作の主人公の金木研は、その自明性に担保されたシステムの外側で、人としての視座を持つ存在だ。喰種の臓器を体内に移植され、一命を取り留めるも自らの性質を喰種のものにされてしまい、人と喰種の狭間で苦しむ彼の物語が『東京喰種』の本筋である。

金木という一人の人間の中に、人の性質と喰種の性質の二つがせめぎ合いながら存在することになる。結果、必然的に彼は、人と喰種の間で物事を見ることのできる唯一の存在として生きていかなければならなくなる。だが、どれだけ金木が人としてのアイデンティティを持ち、誠実に生きようと努めても、力をもたないものを悪とする世界観を主軸に据えている本作において、金木は大切な存在を守るために、強者である喰種となることを選択せざるを得なくなってしまう。

それまで、懸命に押し殺してきた、自分の中にどす黒く眠る、彼を喰種へと変貌させるきっかけとなった喰種、神代利世の亡霊。それを、精神的な自我の世界の中で、喰らうことによって、金木は喰種として生きることを決断する。

選ぶしかなかった彼の闘争と葛藤の運命。彼を待ち受ける逃げ出すことのできない喰種と人の狭間での連環の運命こそが、東京喰種と言う作品を一段階上の葛藤へと導いているのである。

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