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世界石巡礼ブログ ラオス

🔴2009/04/30  20時間の国境越え ラオスへ 

4月28日 短期滞在のベトナムともお別れだ。ハノイの安宿から午後5時半にラオス行きのバスに乗るためピックアップをしてもらう。 ミニバスが30分ほどで連れて行った場所は、バスターミナルとはまったく違うT字路の道路沿いだった。 そこには、ラオスのビエンチャンに行く50人近くの旅人がいた。その中に日本人の若い旅人が二人いて、彼らは、昨夜も待っていたがバスの故障で一日延期したとのこと。ここにいる半数近くは昨夜も待った人々だという。 途中、小雨が降り始めてきた。本当にバスは来るのだろうかと心配しつつ、多くの西洋人のバッパッカー達はトランプを興じながら待っていた。 午後8時過ぎになってようやくラオスのビエンチャン行きバスがやってきて何とか乗る事ができた。 しかし、シートはかなり狭かった。 今回、バスチケットはホテルで購入した。旅行代理店をしているホテルの人は、バスには3つのランクがあって、値段は15ドル、20ドル、30ドル。中でも30ドルはVIPで、ゆったりとしていて15時間でラオスに着く聞き、そのチケットを購入していた。 しかし、実際はバスにランクは無かった。ある日本人が購入したのは15ドルで同じバスだったのだ。 我々は、すっかりだまされたのであった。 深夜バスは途中休憩で食堂に寄ったが、ベトナムドンをすべて使ったため食事をすることもできず、ベトナムノ製の甘いお菓子と、水でしのぐしかなかった。 夜が明けて、29日5時半頃にラオスとのボーダーに入りバスは停まった。辺りは、霧が立ち込めている。 

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ベトナム ラオス 出国手続きは朝7時からなのでそれまで辺りを散歩をする。 ようやく、出国手続きが始まってパスポートを提出するが、係官はワンドーラーと言って公然とワイロを要求してきた。私は思わす、そんなものは払わないと叫んでパスポートを提出しようと出したが、まったく無視された。このお金は、まったく意味不明だ。しかし、ベトナムの現実がここにあった。 我々は、まったくベトナムドンと、US$を持ち合わせていなかった。どうしようか、と思案した結果、一緒のバスに乗っていた日本人女性に1ドル紙幣を借りて何とか出国手続きをすることができた。 その後、国境を徒歩で越え300mほどでラオスへ。今度は入国手続きでも、ワンドーラーを要求されるではないか。 何で徴収されるか、まったく説明のないまま、旅行者は払わされていた。我々は、またもやお金を借りて入国することになる。 その後、バスは足元に置かれた建築資材などを下ろしたりしながら、ビエンチャン郊外のバスターミナルに着いたのは午後5時半頃だった。ベトナムを出て24時間、バスに20時間以上も乗っていたことになる。 そんなバスの旅で、もう一人の日本人と出会った。彼は、熊本出身で「おやじバックパッカー」というブログをされている還暦を過ぎた方で、バスターミナルからミニバスで市内に入り、別れ際、世界石巡礼の活動に興味を示してくれ、夜、待ち合わせをすることにした。 ゲストハウスを決め、シャワーを浴びてからビエンチャンの街へ向かう。その後、メコン川沿いの露天で熊本の方と再会する。 我々はビールで乾杯し、夕食を食べながら世界中の旅話で盛り上がった。 話を伺うと、彼は50代半ばまで仕事人間で、10年前のベトナムの旅をきっかけに海外の旅をし始めるようになったという。会社経営者にして、年に二回、二ヶ月ほどの旅をつづけてブログで報告をされているというユニークな方である。 熊本の方は、これまで32カ国を訪ねているがその中で最も好きな国は、このラオスだとおっしゃった。 「ラオスは、自分にとって桃源郷です。」と言った言葉がとても印象的だった。 国境越えで、3人の日本人と出会いいろいろと助け舟をいただくことができた。

 4月30日 ゲストハウス近くにあるIn peng tenpleというお寺を見学する。 

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ここは仏教大学でもある。本堂の中に入ると、何組かのラオス人家族がいて、子供達が老僧に紐の腕輪を授かっていた。2歳から3歳くらいの子供達は、腕輪を授かると老僧に向かって手を合わせ丁寧に礼拝をするのだ。老僧は実にやさしい眼差しで子供達を見つめていた。 

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子供達が礼拝をする光景を見ながら、小乗仏教の国ラオスの人々の仏教への敬虔さが伝わってきた。 

ポーンサワン行きの夜行バスを待つ、ビエンチャンにて  郡司 拝

🔴2009/05/03  ジャール平原~謎の石壷群を巡る 

 5月1日深夜2時、ポーンサワン行きのバスは、山間の食堂の前に停車した。車掌は、食事のゼスチャーをする。こんな遅い時間に食事かと思い食堂に入ると、どうもバスチケットが食券になっているようだ。バス移動で食事付とは初めての経験だった。我々は米粉の面を食べる。添えられたキャベツとミントが実に旨い。 その後、バスはかなりくねくねした山道を上がって行く。運転手達は、一晩中ボリュウムいっぱいで地元の音楽を流し、一緒に歌いつづけていた。頭がもうろうとしている中、6時半にポーンサワンのバスターミナルに到着する。 同上していた日本人の旅人二人と合流し、トゥクトゥクで街中へ向かった。 ポーンサワンに来たのは、ジャール平原を訪ねるためだ。ここには、ラオス最大のミステリーである先史時代の巨石文化と呼ばれる不思議な石の壺があった。ただ、この一帯は反政府勢力との銃撃戦(2007年)もあり、今回、行くかどうか迷った場所だった。 街中で朝食を食べていると、ラオス人の若者がホテルとジャール平原のツアーの勧誘にやってきて、料金がそこそこだったので我々はツアーに参加することにした。 ホテルに荷物を置き、9時から8人でツアーに出発をする。 最初にポーンサワンのインフォメーションセンターに行くと、そこには多くの爆弾の弾頭が並べられていた。インドシナ戦争中の被害を物語っていた。 

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ジャール平原は、サイト1~3の三つのエリアがある。 1944年~75年、インドシナ戦争にアメリカ軍とラオス国軍の連合軍がパテート・ラーオ(現ラオス政権)が展開するシェンクアンに投下した爆弾は7500トン。爆弾が作った穴が、ジャール平原のあちこちにある。また、不発弾も未だ完全に撤去されていない状態だった。 ジャール平原全体には、500個以上もの石の壺が点在している。 

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白側は安全地帯、赤側は危険地帯 爆弾で空いた穴 この石の壺は、1931~32年の間、フランスの考古学者コラニーによって発見された。 大半の壺の中には何も出土されなかったが、ごくわずかな壺から人骨、ガラス玉が見つかり、また、その周辺から土器、石器、鉄器、ガラス玉が見つかったという。 1994年、日本の考古学者・新田栄治らによる調査では、やはり、人骨や鉄器、玉類などが発見され、今のところ石の壺の目的は「棺桶」説が有力だ。 サイト1は、最もたくさんの壷が点在していて、その近くに洞窟がある。洞窟からも人骨が発見され、また洞窟の天井に穴が開いていてことから、火葬場として使われ、そこで白骨化したものを石壷に入れたと思われている。 他の説として、“酒壷説”、“米壷説”などがある。 その昔、空の神・テーンが地上に降りてきた時、壷から酒を飲んだという伝説が残っている。 暑い中、ゆっくりとサイト1~3のすべての石壷を巡ることができた。壷の穴は、丸いものから四角いものがあり、壷の大きさはまちまちでどれも個性的な感じがした。 石壷には、もともと蓋があったようで、上に乗せられているものが一つだけあった。いくつかの壷の近くには、蓋が置かれてあった。また、ある壷には女神のような像が彫られているのがとても興味深かった。 

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女神像が彫られた壷 多くの石壷を見ていると、自分としては酒壷説に賛同したい。 昼食後、これから田植えが始まろうとしている水田の畦道を10分ほど歩いたところにあるサイト3を見学する。私も含めツアーのメンバー達は、石壷の見学にお腹いっぱいといった感じだった。 

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ジャール平原の巨石群は、一体何のために作られたのだろう。これら石壷を見ていると、石壷が信仰的な役割があったように私は感じた。一つ一つの形が異なる石の壷を作ること自体が、まるで祈りの行為だったのかもしれない。 ツアーの最後に訪ねたのはある農家で、米で作ったラオラオというお酒を試飲させてもらう。アルコール度数35℃もあり、少し飲んだだけだかなり良い気分になった。 それにしても、10時間のバス移動、そして暑い中の6時間のジャール平原の石壷ツアーは、かなりハードであった。しかし、ラオス人の素敵な笑顔で何とか乗りきることができた。 

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世界遺産の街、ルアン・パバンにて  郡司 拝

🔴2009/05/05 ルアン・パバーンでの再会

 5月2日 標高約1100mのポーンサワンの街からミニバスで6時間、標高約280mのルアン・パバーンにやってくると猛暑といった感じがした。 ラオスの古都ルアン・パバーンはランサン王国(1353-1975)の王都で、古くはムアン・スワといい、その後シェントーンと呼ばれた。カーン川とメコン川の合流地点に位置する緑豊かな町ルアンパバンは、その美しいラオスらしい町並みと、フランス植民地時代のコロニー建築などの歴史的、文化的遺跡保護の観点から、1995年、ユネスコによって世界遺産に指定される。 

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             プーシーの丘から望む 

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                 宿近くの寺院

 我々は宿を決め、シャワー浴びて街中の散歩に出かけた。メイン通りには、お洒落なレストランが立ち並び、観光地といった雰囲気が漂っていた。カーン川沿いで夕日を眺めてから宿に帰ろうとしている時、見覚えある女性がこちらに向かってくるではないか。 その方は、10数年来に知人であるK・サチコさんだった。 

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                カーン川 

彼女は、最近借りた3階建ての住居から窓の下を歩く、私を見つけ声をかけたが気づかず、追いかけてくれたのだった。それにしても、偶然の再会にとても驚いた。 サチコさんとは10数年前ほど前、フィリピンの映画監督キドラット・タヒミックの縁で飯能の竹寺で出会った。 彼女は、17年前からタイのチェンマイに服飾のスタジオを構え、タイシルクや麻を使ってオリジナルの衣装を造られているデザイナーである。日本のみならず、ヨーロッパやアメリカなどでファッション・ショーをされていて国際的に活躍をされている方だ。 かつて、東京・西荻窪にあった彼女の店「パゴダ」に何度も伺ったことがある。パゴダはサロンのような場所で、色々な方が出入りしていてサチコさんの手料理で御もてなし受けて、様々なジャンルの方々を紹介していただいた。 半年ほど前に、私は久しぶりに東京でサチコさんにお会いしていた。その時、サチコさんは最近ラオスのルアン・パバーンに3階建ての建物を25年契約で借りたとおっしゃっていた。 私は、世界石巡礼でラオスに来るかどうかはっきり分からなかったので、事前にサチコさんと連絡を取っていなかった。日本とタイ、ラオスを行き来されているサチコさんと、このルアン・パバーンで偶然にも再会できたことはとても嬉しかった。しかも、彼女は翌日、タイのチェンマイに帰る矢先だったのである。 サチコさんが借りたルアン・パバーンの家は、リフォームの最中だったが、中を見せいただく。 1階は、サチコさんの衣服の販売スペース。2階は、茶室とギャラリー、3階は、住居とゲストルーム、そしてバルコニーには日本庭園をアレンジしたいという。日本から畳や襖を取り寄せる手配もしていて、完成は来年初旬頃になるという。サチコさんがこの建物を気に入った理由は、3階のバルコニーからお寺や森、山が見えることだ。 その夜、夕食ご馳走になりながらゆっくりとお話をすることができた。 この世界遺産の街ルアン・パバーンは、小さい街にも関らず全世界から多くの人々がやってくるという。 そんな街で、サチコさんが家を借りたのは、この建物を利用して将来的には日本文化を世界に発信したいからだという。 サチコさんは還暦を過ぎ、今、61歳になる。しかし、出会った10数年前からほとんど変わらないように見える。何かに情熱的に生きる方は、魅力的で若々しいのだと思う。 建物が完成した頃に、ぜひ私達もまた伺いたいと願った。 

 翌3日早朝の5時半頃ルアン・パバーンの街に出る。 そこには、多くの僧侶達が裸足で街を歩きながら托鉢をしている光景が待っていた。 

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地元の人々は、蒸しご飯、バナナ、お菓子などをお布施していた。また、ラオス人以外に観光客と思しき西欧人もお布施をしていた。ここでは、観光客用のお布施用品もしっかりと販売しているのだ。 しばらく観察していると、お布施をする人々に混じって子供達が袋や籠をもって座っている。何人かの僧侶は、托鉢で頂いたバナナを子供達の袋や籠の中に入れていた。僧侶達には、貧しい子供達に食べ物を分ける与えるという相互扶助の精神があった。 今後、この世界遺産の街に観光客が増えようとも、この托鉢の光景は残りつづけてゆくことだろう。 

ルアン・パバーンにて   郡司 拝


🔴2009/05/05 メコン川断崖のパークー洞窟 

5月4日快晴 ルアンパバーンからメコン川を35kmほど上流にあるパークー洞窟へ向かった。 その日、朝から下痢になり体調はかなり厳しい状態だった。しかも、洞窟までスローボートで二時間かかる。 狭い、ボートで横になりながら何とかパークー洞窟へ到着する。 

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パークー洞窟は、メコン川の絶壁にあり二つの洞窟の総称で下段をタムティン洞窟、上段をタムプン洞窟と呼ばれている。 桟橋から階段を上り、入場料20,000kip(260円)を払いさらに急な石段を上がって洞窟に入る。 洞窟は、鍾乳洞で大きく穴が空いているため中の様子が伺える。二箇所に、仏像がまとまって安置してある。ガイドブックによれば、この中に4000千体の仏像があるという。 

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この洞窟は、16世紀にセタティラート王により発見されたといわれる。かつて、この洞窟に高僧が籠もって生活をした場所で、仏像群は高僧が集めたものだという。 入り口で線香を買って仏前に供え、礼拝する地元民の姿を見かけた。やはり、ラオスは仏教への信仰の篤さを感じる。 

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その後、さらに上の方にあるタムプン洞窟へ向かった。 緩やかな石段を上がって行くと、子供達が小鳥を籠に入れて「テンドーラー」と声をかけてくる。小さな小鳥が、小さな籠に入れられているのは実に痛ましい。子供にしつこく付きまとわれて仕方なく鳥を買った日本人女性は、後で逃がすと言っていた。 ラオスに来て、子供達が働く姿を多く見かける。社会主義国ラオスもまた貧富の差が目立つ。 入場料を取っておいて、洞窟近くでこのように子供達に鳥を売らせる行為は理解できなかった。 タムプン洞窟は、入口は鉄格子で覆われていた。 

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中に入ると、ロウソクの灯る祭壇があり、何かの儀式に使っていたような場所があった。奥に行くと真っ暗になり懐中電灯なしでは何も見ることはできなかった。しかし、変にライトアップされているより闇を感じることができ、より聖地性が伝わってきた。 ラオスの洞窟の聖地は、日本と共通した聖地性がある。 

レアン・パバーンにて  郡司 拝 

追伸:5月6日、ルアン・パバーンからタイのバンコクへ空路で向かい、そこから今後の旅のルートを検討予定。 


🔴2009/05/07 プーシー丘の仏塔と巨石

 ルアン・パバーンを離れる前日、この街の中心部にある100mほどの小山、プーシーの丘に上った。 この丘の上からはルアン・パバーンの町並みが見渡せ、夕日の絶景地としても知られている。 王宮跡(現:博物館)横の、マーケットからまっすぐで急な石段を上がり入場料20000kip(約250円)を払い、 そこから、一気に階段を上り詰めると身体から汗がにじんできた。 

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丘の頂上には1804年、アヌルット王によって建立されたタートチョムシー と呼ばれる仏塔があり、その横にはお堂もあった。山頂はわずかなスペースだが、そこには30人ほどの観光客が座っていて、やがて日が沈もうとしている光景を待っているのだ。多くのカップル達はカメラを片手に、まったりとした時の流れで街を眺めていた。 

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夕日まで、まだ時間があったので私は仏塔を見てから横にあるお堂をお参りすることにする。 裸足で中に入ると、数体の仏像が安置されていて黄金色に輝いていた。 

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私は仏像に手を合わせてから、お寺の中を観察した。すると、窓から不思議な光景が目に入った。それは、岩の割れ目である。いや、正確に言えば、元々あった岩と、その上に作られた仏塔の隙間が空いていて、割れ目状になっているのだ。 

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岩と仏塔の隙間は斜めに走り、その下にはお香が供えてあった。割れ目の上に屋根が付けられていることから、この場所には特別な意味があるように思えた。 もしかしたら、このプーシーの丘の山頂の岩は、本来は日本の磐座のように信仰されていたものではないだろうか。 お堂の北側と、仏塔の南側にある巨石を見てそう感じた。 

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お堂の北にある巨石 仏塔やお堂ができる以前、この山はどのようなものだったのだろう。 やがて、日が傾き始めようとしていた。山上は60人以上の人垣ができ、思い思いで眼下を眺めている。 夕暮れ時のルアン・パバーンの街を見渡すと、緑と川に囲まれた実に美しい街だとつくづく感じた。 

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帰りがけ、丘を下ったチケット売り場の隣にある巨樹が目に付いた。樹の下にはロウソクが灯され、何とも幻想的で美しい光景がそこにあった。 

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ラオスには、巨石・洞窟・岩・樹などのアニミズムへの信仰が息づいている。 

バンコクにて   郡司 拝