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関係もなく悲しいということ

吐きそうになりながら文字を綴る。別に具合が悪いわじゃなくて、とにかく頭はくらくらするし、涙は止まらいということ。

今日で東日本大震災から10年が経った。まだ10年なのか、もう10年なのか、当事者ではないわたしにはわからないけど、人の生活が変わるほどの年月が過ぎ去ったことは確かだ。

当時高校2年生だったわたしは帰りの電車に乗ろうとしていたときに揺れた。いつまでも揺れているし、いつまでも電車は動き出さないし、寒いしで、とりあえず学校に戻ることにした。学校ではグラウンドにみんな避難していて、それから教室から視聴覚室とかに移動して、どうしたって電車は動かないし、妹がダウン症なので母は妹のそばから離れることは出来ないので迎えにもいけない。困ったわたしは近くに住んでいる友人3人と体操服やらなんやらで防寒をしっかりして、家まで歩いて変えた。当時は便利なスマホは持っていないので、混みあって連絡も取れない使えないガラケーを持って、線路沿いをひたすら歩いた。5時間くらいして家についたと思う。その間、家族と連絡が全然取れないわけだから、心配だった。
帰る途中の家電量販店のテレビに、福島原発が爆発した映像や、津波の映像が流しだされていた。「ゴジラ」の撮影でもやっているのかということが、現実に起きていた。

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震災以来も震災以後も東北との繋がりは特にない。その後、学校はしばらく自主登校だったけど、ほとんどさぼって母に怒られた。大学に入って、3年生くらいのときに岩手県吉里吉里のフィールドワークに参加して、震災から4年経っても活気のない町の様子に驚愕した。「それでも海とともに生きていきたい」と言っていた、その人の言葉が忘れられない。海は愛してやまないものを数えきれないほど奪っていったというのに、まだ海を愛している。人間って不思議だなと思ったし、それが人間なのかもとも思った。強烈な津波の映像を見たわたしも、海はだいすきだ。

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それっきり。それっきり。
なのに、今年の14:46は溢れるほどに涙がこぼれた。大切な人を失ったわけでもなんでもないのに。今でも帰る家がない人がいる、今でも見つかっていない人がいる、今でも差別を受けている人がいる、今でも作物に影響が出ている、今でも、今でも、今でも。

津波にさらわれた人、家屋の下敷きになった人、火災に巻き込まれた人、亡くなり方はそれぞれだけど、それはとっても悲しいんだけど、まるでその人の人生が全部悲しかったものになるみたいな感じがすごく嫌だ。わからないけど、地震が起きる瞬間まで、幸せにわたしと同じに生きていた人はいたと思う。

3月になると想いを呼び覚ますように、想いを感化するように、想いを流し込むように、報道の量が多くなる。仕方ないかもしれないし、最低でも年に1回は思い出さなきゃいけないのかもしれないけど、この風物詩的な感覚が嫌いだ。いつでも思っているし、いつでも祈っているよ。それは24時間365日寝る間も惜しまずにしているんじゃなくて、生きていて、ふと思うことが毎日、毎週あるということ。忘れるなんてできないし、忘れた日は1度だってない。どうしたらこの風物詩感覚を無くせるのかはわからないけど、わたしは、わたしの気持ちを忘れないようにしたい。それで、関係もないのに、東北のことを想って泣きたいときには思い切り泣きたい。

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今は縁あって災害支援の団体で働いている。災害が発生したらすぐに現場に向かう部署ではないけど、ここで働く限り、目の間にするときがくると思う。わたしはここで、被災地と勝手に関係を持って、困っていることとか、苦しいこととか、泣きたくなるようなことを伝えていきたい。東日本大震災のようなたくさんの人が亡くなる災害はあんまり起こっていないけど、毎年日本各地で避難所が設置されるほどの、家を失わなければいけないほどの災害が発生している。小さい災害だからって向き合わなくていい理由にはならない。その災害にも発生日時があること伝えたい。みんな、コロナでも、頑張って、頑張って、立ち上がって、少しづつ、少しづつ未来に向かって進んでいる。わたしもそんな人たちと一緒に、手を携えて進んでいきたい。

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