デジタルとアナログ、多くの人が見落としている大切なこと⑦
欧州での第二次世界大戦の戦火と迫害を逃れ、渡米した多くの科学者・研究者たちの叡智が米国西海岸へ集積したことを契機に20世紀半ばに結実してトランジスタ(半導体集積回路、LSIやマイクロプロセッサなど)が誕生。
1960年代に入るとコンピュータ産業の急速な躍進と普及に勢いを与え、20世紀末に始まった民生用インターネットの解禁と高速化によって情報革命とも呼べる社会の変革をもたらしました。
21世紀の前四半期はGAFAMに代表される巨大IT企業群(プラットフォーマー)に代表されるデジタル全盛期の現代と呼べるでしょう。
私たちの暮らしも仕事も、実に社会の隅々までデジタル化(デジタルトランスフォーメーション、DX)の波が押し寄せています。
人々が単に触れる情報だけでなく、デジタル化の急速な普及は人々の思考や行動までもデジタル化に傾倒しつつあります。
奇しくもコロナ禍で浮き彫りになった日本のデジタル化の遅れを取り戻そうと、遅まきながら日本でもデジタル庁の設立が今秋から始まります。
「縦割り行政」と揶揄される日本の省庁を横断的に改革することを目指すとされているデジタル庁ですが、業務の集約や効率化など取り組むべき課題は山積しています。
しかし接触確認アプリCOCOAの改修状況などの足元を見る限りにおいてはあまり過大な期待は当面できないかもしれません。
世の中では猫も杓子もデジタル化という風潮ですが、誤解をしてはいけないのはデジタル化にはメリットとデメリットがあることを扱う側の人間は決して忘れてはいけないということを改めて触れておきたいと思います。
言葉の意味、辞書をきちんと使って調べていますか?
昨今、事あるごとに言われる「デジタル」ですが、皆さんはデジタルとは何かを正しく理解しているでしょうか?
また「デジタル」の対義語として使われることもある「アナログ」について、ともすれば「デジタル=新しい、進んでいる」「アナログ=古い、遅れている」などと勝手な解釈や理解をしていないでしょうか。
当たり前すぎて当たり前なことですが、名は体を表すです。
言葉の意味を正しく理解していなければ、その先の意思疎通や抗議・交渉・議論などとてもできません。
このため学校教育で「国語」という教科が担う役割はとても大きく、国民国家における教育はこの国語における読解力・理解力が扇の要になっています。
どんなに立派な扇面や親骨・中骨だったとしても、それらをまとめる要がきちんとしていなければ扇はバラバラになってしまいます。
言葉の意味を知らない、分からないというのは非常に危ういという事に対して改めて警鐘を鳴らしたいと思います。
何でもデジタル化の昨今です。
言葉の読み方や意味の概要をなんとなく理解するにもインターネットの検索や電子辞書を用いる人も少なくないでしょう。
急ぎの場合などにはそれもよいでしょう。
しかし私は未だに言葉の意味を調べる時に国語辞典を引きます。
たとえば私の手元にあるのは三省堂の『新明解 国語辞典』(第五版小型版、以下『新明解』)です。
1972年に初版が発行され、私の手元にある第五版は2000年に発行されています。
この記事を書いている2021年4月時点では第八版が最新版ということになりますが、普段持ち歩くのは難しいでしょうけれどご自宅や職場など過ごす時間の長い場所やあなたが読書されるそばには是非一冊はお持ちになることをお勧めします。
尚、私が第五版を未だに自宅で使っているのは初めてアルバイトをした給与で買ったのがこの一冊だったので、愛着です(笑)
言葉は時代と共に変化します。
しかし良い辞書は一生ものです。
時代が変わっても、変わるものと変わらないものがあります。
変えてはいけないものがあります。
昨今は大きな書店などに行くと非常に面白い辞典もたくさん並んでいます。私はこういう辞書も大好きです。
しかし『新明解』は非常に珍しい、考えさせてくれる辞典です。
この辞書の面白さを児童・学生の頃に知ったら、きっと言葉はあなたにとって一生の友人になるでしょう。
辞書を引き”自分で考える”という”プロセスの重要性”
アナログとデジタルという言葉で、最も代表的なのは時計でしょう。
昨今はスマートウォッチなどと呼ばれる多機能な物を利用している人も増えてきているようですが、いわゆる長針短針で時間を示す時計を「アナログ時計」と呼びます。
一方で、液晶パネルなどに時刻だけを表示するものを「デジタル時計」と呼びます。
ここにある大きな隔たりと違いについて触れる前に、大切なことを解説しておきたいと思います。
時計の場合、この「アナログ」や「デジタル」とは何のことを意味しているのかを考えたことがありますか?
時間とは、そもそもなんでしょうか?
人は何をもって時間を知覚し、捉えているのでしょうか?
アナログ時計の「アナログ(Analog)」とは新明解によると、
この「アナログ」という言葉一つを辞書で引くことで、何も発見はありませんでしたでしょうか?
例えばですが、この引用の中からでも”相似型”ってなんだ?とか、
次の言葉である”アナロジー(類推)?”が目に留まり、そしてこの言葉同士のつながりに興味を持ったとしたらあなたは言葉の魅力に気づいた人でしょう。
そして「類推」を調べていくと…という様に言葉の深化を自分の中に取り入れていくのです。
実はこの作業は今風に呼ぶならとてつもなくアナログです(笑)。
しかも、とても地味な作業です。
効率的な作業とは決して呼べないでしょう。
そしてデジタルの作業、デジタル化、デジタル思考などと言われるものは結論だけを切り出します。
ここには断絶したとてつもなく大きな隔たりがあるのです。
デジタルとアナログは何を類推し、何を抽出して表現しているのか
時計を例に引き続き、解説をしていきたいと思います。
いわゆる時針が指して時刻を表す「アナログ時計」は、日時計(Sundial、Silhouette、シルエット)をモチーフに類推して表示されています。
地球が太陽の周りを周回している周期と自転という自然現象または法則(Original,Natural)を、日時計に映し、それを類推することで時間を表現しています。
そして「デジタル時計」とはその時刻(時分秒など)という結果だけを抽出した結果だけを切り取って表示している道具ということになります。
「類推」についても『新明解』に解説してもらいましょう。
既得の知識とはここで言えば日時計による時間という概念の事です。これを応用することによって未知の物事とは未来の時間の話です。
常に人は時計の針とにらめっこをしているわけではありません。
人が時計の針を監視していなくても、時間は既知の概念に基づいて一定の速度で進んでいきます。
そしてそれを時計の針はわざわざ日時計と照らし合わせなくても、そうであるように動き続けます。
陽が落ちた後でも、時間は進み続けます。これから迎える未来という時間がどうして同じように進むと我々は知っているのでしょうか?
図にするとこうなります。
少し科学的なお話ですがそれぞれの時計の電気信号をオシロスコープなどで観測するとアナログとデジタルの関係はどうなるのでしょうか?
これが面白いものでアナログ時計の電気信号(アナログ波長)は規則的な振れ幅を表し波長が連続性をもって表されます。
他方、デジタル時計も結果的に表示に使われる電気信号は確かにそれに近い形での波長を観測しますが、デジタル…つまり0と1の連続になりますので、以下の図のように波長を描く波は断絶しています。
そしてこの断絶している部分を類推し、上部だけを結びつけることで私たちはこの場合、アナログ時計とデジタル時計は電気的に恐らく同じ時刻を表していると理解をします。
ところが、本当のところはどうでしょうか?
そのデータとデータの間はアナログと同じように連続しているかどうかは分かりません。
もしかしたらデータとして抽出できなかった間の情報は我々が勝手に類推したものと異なるかもしれません。
この場合、アナログとデジタルで同じであろうと考えていたはずの結果に差異が生じることになります。
つまりデジタルを過信しすぎると、アナログでは見落とすことがなかったようなこと、それはもしかしたらほんの些細なことかもしれませんが、とても重要なことかもしれません、それを見落としてしまうことになってしまうのです。
レコードの持つ音域の深さとCDがそぎ落としたデジタル音楽の違い
今やこんなことを言う人もかなり少なくなってしまったかもしれませんが、昔の音楽などはレコードと呼ばれる円盤を回転させているテーブルに針を落として聴くのが主流でした。
これがやがてカセットテープに代わり、そして1980年代に入る頃にはいよいよCDが登場しました。その後MDなどを経てMP3などのデジタル音楽への意向を果たしました。
レコードやカセットテープはアナログで、CDはデジタルです。
この移行期によく言われていたのが「CDの音は味気ない」というものでした。
CDは人の耳が捉えることが出来る可聴域と考えられる音を記録し、そして再生する仕様だったのですが、アナログはその収録場所や歌手・アーティストが奏でる可聴域に含まれない連続した音という情報を持っています。
デジタルは音を電気信号に置き換えた際にどうしても抜け落ちてしまうこの連続性を記録することが出来ないために同じ環境で収録したとしてもどうしてもその違いが出てしまうという問題がありました。
所謂、「空気感」や「臨場感」、「迫力」と言われるものです。
非常にアナログで前時代的でしょうか?
しかし生の演奏や生の歌手の歌声などを聴いたことがある人、音楽を愛する人たちにとってそれが確かに存在する事は多くの方が知っていることです。
近年はデジタル技術の進歩によってハイレゾ音源やリニアPCMなどと呼ばれる高音質のデジタル録画もできるようになりましたが、2010年前後になってからの比較的新しい技術です。
デジタルとアナログ、どちらが良い悪いという話をわざわざしたいのではありません。
デジタルにはデジタルの、アナログにはアナログのそれぞれの良い点や苦手とする点があります。
そしてデジタル全盛、デジタル万能とも錯覚してしまいそうな昨今だからこそデジタルへの過信を戒めて、その抽出するデータ(結論)から抜け落ちてしまっている部分が本当にないのか。
その抜け落ちた情報は、本当に省略してしまって良いのかを考えるのは人間の役割だと思うのです。
コンピュータというハードウェアは1970年代にホームコンピュータが登場した時代とは比べ物にならないほどの進化を遂げました。
ハードウェアの進歩に合わせるように、いえ追い越すようにソフトウェアもどんどん進化をして、ハードウェアと共に日進月歩です。
しかしそのハードやソフトを扱う人間とその人間の脳や思考や能力はそれほど大きく進歩していません。
人間はウェットウェアと呼ぶ”第三のウェア”です。
人はデジタルだけのロボットやアンドロイドではありません。
価値観・倫理観・道徳観…実に様々な感情や心、精神で動く不合理な生き物です。
そこには合理性ばかりのデジタル思考では片づけることが出来ないものが無数にあります。
デジタルを得意とする人工知能(AI)がこれから人間の大部分を代替して、人の役割は大きく変わって来るでしょう。
しかしなんでもデジタル、損得や結論ありきの思考だけでは片づけてはいけない問題も沢山あります。
これからますますデジタル化が進んでいく中で、人が人であるための部分までデジタル化してしまって良いのか。
思考までデジタル化してしまって良いのか。
プロセスを見ずに、結論(リザルト)だけを重視していてよいのか。
これからを生きる一人一人が真剣に考えなければいけないでしょう。
そのためには考えるための道具、そして能力が必要になります。
私はそれが問題の解き方、結論だけを追い求める「学習」ではなく、
自ら問い自ら考える「教育」であると考えています。
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