【妄想考察】リコリコ続編は劇場版?偶然生み出された奇跡のヒット作⑩
2022年夏アニメ(7-9月期)に全13話で放送を終えたA-1 Picturesオリジナルアニメ『リコリス・リコイル』(以下、リコリコ)。
良くも悪くも描かれていない部分が、小説の行間のような想像の余地を生み出し、キャラクターデザインや原案・脚本・演出(声優や音響を含む)などの良さなど細部の様々な部分を補い合うことで生まれた奇跡のような作品だと思います。
製作に携わった方々の並々ならぬ努力と苦労の結晶であり、このヒット作は紛れもなく通年を代表する作品であり、2020年代の方向性を示すマイルストーンになったと思います。
描かれなかった余白を利用して、私もこれまで数々の妄想考察をぶち上げてきました。
現時点まで11本の妄想を垂れ流してきた訳ですが、本記事ではやや批判的な角度から、個人的に感じていることをぶっちゃけて書いていきたいと思います。またこの記事に関しては当面ナンバリングなしで書いていきます。
きっかけ
こういう事をと思ったきっかけは下記のnote記事(有料)で、実は私が漠然と感じていたことを批評座談会(有料部分)でかなりバッサリ言ってくれていたのが後押しになりました。
過去にも書いたと思いますが、私のスタンスは作品が作者(制作陣)の手を離れた瞬間から、作品の評価は観た人の感想(主観)に委ねられると思っています。(一応、これでも文学部卒の端くれ※)
だから国語の授業における「作者の考えを述べよ」みたいな問題が大嫌いでした。
そんなの出題者が考える作者の言いたい事は何かを問うているようで、伝言ゲームならぬ他人の顔色を読む日本の読解力・ディベート力・自律思考が低下する一旦であるとさえ思います。
まぁ、この問題は根深いので置いておくとしても…。
好きな作品を観ていない人への先入観や評価全体をあまり下げるような事を書くのはどうにも気が乗りませんでした。
恋愛でいえば、恋人の悪口を言うようなものです。
捉えられ方を間違えると「リコリコは面白くない」と観る人の機会を奪ってしまう…
言ってしまえば未視聴で関心を持っている人にネタバレをしてしまうようなものです。
ネガティブな記事を書く→リコリコ面白くなさそう→見る人が減る→円盤・グッズ売上が減る→続編が作られなくなる
こうした負のスパイラルに陥ることに私は、及び腰でした。
最近の流行で言えば総論として「リコリコ面白かった」なのですから、どこがおもしろかったかについては他人にとってどうでもよいのです。
私のような一介の視聴者、ファン全体のどれだけの割合の人が私の書いた内容を読んでいるか(読んでいない方が絶対的多数でしょう)
それこそ受け手の問題だというのも重々承知ですが…。
しかし宇野さんの記事、リコリス・リコイルの批評座談会をお金を払って視聴して厳しい意見も言う…「これが(批評としての)愛だよな」と思うに至ったのです。
振り返れば保険や証券、FP・IFAとしても厳しいことを顧客・相談者に対して言うのこそ担当者の本懐としているのに、私生活のアニメ考察では何をぬるいことをしていたのでしょう。
これらの過去記事をお読みの方は私がリコリコを好きな事は十分に伝わっていると思いますが、大好きです。
大好きだからこそ、愛ゆえに、批判的なことを今回の記事では言うのだということをご理解いただきたいと思います。
エヴァノトキトオナジジャン(; ・`д・´) (´艸`*)アイユエニニクシ
ぶっちゃけ中だるみはした
私の妄想考察を時系列で追いかけている暇な人はまずいないと思いますが、9月3日に公開した第9話視聴までを書いた【妄想考察4.0】の次に、リコリコに関する記事を書いたのは10月8日の【妄想考察5.0】でアニメ放送が完結してからで、この間は約1カ月ものブランクがありました。
この時期は仕事が多少タイトだったのもあって…という言い訳は兎も角、週末放送のリコリコはリアタイABEMA視聴をしていました。
しかし本来なら【妄想考察4.5】を書こうとしていたのですが、書けませんでした。(一応、現在も1.5と4.5は書いていない)
物語が最終章に突入して作品を見届けたうえでの記事にしたいと思っていたことは確かですが、別に雑誌等の連載ではありませんから【妄想考察n】にしてしまえばぶっちゃけなんぼでも記事は書けます。(労力は別として)
ぶっちゃけると10話以降は見どころや感動的なシーンこそあれど、考察するべき点があまり見当たらず、声優・音響を含む演出の技巧によって押し切られた感があり、10-13話までは手探りで描かれていた感がこれまで以上にありました。
リコラジやNewtypeやアニメイトなどの製作サイドの方々のインタビュー記事を読んでも、楽しそうな雰囲気は伝わって来るし、収録・製作におけるネタ(アドリブ)などは面白いものの物語の背骨(核)のような部分が見えませんでした。
主人公である千束はどんな選択をするのかは、いわば足立監督がこの作品を通して描きたかったことは何かでもあります。
作品としての物語性とは別に、もう一次元か二次元…作者というのは物語における神様です。数段階上の視点から作りたいように作品を描けます。
物語はその舞台で演出される脚本であり、近未来の日本(現実の日本によく似ている親和性)の中で多くの国民が平和で安全という神話を信じ込んでいる…思考停止の状態。
スカイツリーを想起させる旧電波塔は折れ、新しい電波塔(延空木)が完成間近の年という舞台設定。
しかしその裏では国民に知られず少年少女たちが血を流し、命を落としてその平和を維持している。
「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」
裁判を通さずに凶悪犯(無敵の人)を予め暗殺し、なかったことにしてしまう日常の中の非日常感。
その物語の主人公である少女たちは、錦糸町・押上界隈の下町の雰囲気が漂う住宅街で和カフェで働き、地域の常連さんたちを交えてボードゲームをしたりする日常ほのぼの系の雰囲気を描きつつも、銃撃戦と言う生々しさとの使い分けの巧妙さ。
批評座談会を視聴して、「全部だった」に私の中で至りました。
アサウラ著Ordinary daysの重要性
座談会でも語られていましたが、原案に関わったアサウラ氏が書いた公式スピンオフ小説『Ordinary days』はそういった意味で物語の本来あるべき視点と流れを取ったものだったと思います。
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