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「教育」と「学習」の違い。日本での学校教育は教育ではないという話

最近、FA(ファイナンシャル・アドバイザー)やFP(ファイナンシャル・プランナー)の人たちとつぶさにこんな話をすることがあります。

「YouTuberの間違った投資を鵜呑みにしている人が多すぎる」

「前からブログとかインターネットで間違った保険についての解説をしているのを信じてしまう人がいたけど、最近は特にひどい」


非常に根が深い問題だと考えているFAやFPが少なくとも私の周りには多いようです。

ここまでを読んでこの事例がどんな動画やブログなどを指しているのか、何が間違っているのかを検証しようとするのが日本人の多くの方に根付いている誤った考え方かもしれません。

この「何が正しい」「何が間違っている」という考え方そのものが今日の日本における教育の大きな誤解であることを今回は解説していきたいと思います。


今回も例によって結論はありません。私なりの自論はありますが、答えを求めて読む記事を私は基本的に書きません。

私は読む人が自分の頭を使って、心を駆使して、言葉の意味を咀嚼して初めて価値が出る文章を書きます。

3月は私小説的なエヴァ関連記事が大変多くの方に読まれて、個人的にはその続きも書いていきたいのですが(笑)

エヴァ関連の有料記事やマガジンを買ってくれる人、サポートをしてくれる方がまだ私の中で少ないのでしばらくはこういうことを少し真面目に書いていきたいと思います。


「教育」とは何ですか?

あなたにとって「教育」とは何ですか?これを説明してほしいと言われた時に、あなたはどう「教育」について語りますか?

以前どこかのタイミングで書いたかもしれませんが、私は両親が小学校の教師でした。二人ともすでに退職をして老後を迎えていますが、父はとある地方の校長まで勤めました。

だからという訳ではありませんが、私にとって「教育」とはという問いについて語らせると一晩でも二晩でも語り続けることができると自負しています。

予め断っておきますが私は教員免許は持っていません。しかし大学1年の時にいわゆる教職課程の授業を例によって少しだけかじらせてもらう機会がありました。

そして「こんなものをわざわざ学ばなくては教員になれない程度なら教師に等ならない方がマシ」という結論が私の中で出たために私は教職の道には進みませんでした。

進まなくて大正解だったと今でも思っています。

もし私が幼稚園なのか、小学校なのか、中学校なのか、高校なのか知りませんが教諭(教師)になどなったら大変です。

子どもたちがかわいそうです。

この日本という国の中で生きていくことを前提としたことを私は子供たちに教えることができないからです。

しかし一部の子どもたち、親にとってはこの人と出会えたことが人生の大きな転機になるかもしれないレベルでの「教育」を提供する事ができただろうとは思います。

尤も多分、すぐにクビになるか異動を命じられてしまう可能性は否めません。

食っていくことが危うい仕事などあえて選ぶのは正気の沙汰ではありません。


私にとっての教育とは次のようなものです。

これは私が子どもの頃だったと記憶していますが、確か「公文式(くもん)」のTVCMで日本と欧米の算数の授業の違いの一例を紹介したものです。

ナレーションでは「日本の学校では1+2=□、2+3=□…、欧米では□+□=3、□+□=5…この方が授業が少しだけ楽しくなりそうじゃないですか?」みたいな解説が流れていたと思います。

何しろかなり古いCMなのでこんな時代とはいえどこかに動画がアップロードされていないか探したのですが残念ながら見つけることが出来ませんでした。

もし見かけた方はコメントください。


この二つの違いを私は「学習」(Learning)「教育」(Education)と呼んでいます。

つまり私にとっての教育とはこの図で言えば右のような□+□=3などのように考えるものというのが教育の第一歩であると考えています。

第一歩と断ったのは、次の段階では□+□=になり、その次の段階では”+”の部分さえ◇(+-×÷=などを入れる)にしてしまうのが本来の教育に必要な考えであると考えているからです。

つまり”□◇□◇□”ということです。

しかしこれではさっぱり何のことか分からなくなってしまいます。

なのでせめて”□+□=□”と、ここでは表記したいと思います。


そしてこれがまだ教育ではなく教育に必要な考えと言ったのには理由があります。

教育(Education)とは元来、”E=外から”と”ducation=刺激を与える”という言葉で構成されており、これがその全てを物語っているとさえ言えます。


ちなみにこれは教員免許を取得するための教育課程の最初の最初に必ず教わることです。


教育とは、その子(児童・生徒・学生・受講生など)が内包している能力や才能・可能性に対して外から刺激を与えて開花させることこそが本来の目的であると考えています。

つまりたった「1つの答え」(正解)を探すのは教育ではないということです。


言い換えるとこうなります。

日本の殆どの幼稚園から小学校、中学校、高校、大学、大学院・専門学校などと言われる教育機関(学校)で行われているのは私にとっては「教育でさえない」ということです。


これは、どうでしょう?

到底殆どの教育現場の方々や保護者には受け入れられないでしょう(笑)

殆どの日本人が長年受けてきた学校教育の真っ向からの否定です。

教師になどなるべきではない人間の思考ですね。

日本の文科省のやっていることほぼ全否定ですから。


ですが、誤解のないように断っておきます。

文科省のやっていることにも全く無駄ではない面があります

意味と価値がきちんとあります。

なので多くの方はどうか安心して文科省が認めている学校教育を教育と信じて受けてください。

どんな価値があるかですが、この日本という島国の中でだけ通用する考え方と価値観に染まるというただ一点においてのみ日本の学校教育には価値があります。

つまり日本がたとえこれから先どんな状況に陥ろうともこの島国から逃げ出さずにしがみついてでもこの国で生活をしていこうという、恐らく殆どの国民にとっては必要なことです。

この島国で生きていくための社会性を身に着けるうえで文科省の学校教育は大いに役に立ちます。

「空気を読む」という素晴らしい能力を最大限に発揮できる、量産型思考停止式アンドロイドを作るための教育ですから。

それの是非は置いておいたとしても私の掲げている「教育」とはそもそも目的も目標も違う訳です。

私はこの文科省が長年しがみついてでもやり続けている学校教育のことを「非教育」、別な言葉で表すのであれば「学習」と呼んでいます。


「学習」とは何ですか?

先ほどと変わって別な角度からこの事について問うてみたいと思います。

あなたにとって「学習」とは何ですか?

私にとっての学習とは、あるルール(法則)に従っていくことで答えが導き出せる考え方を学ぶことです。

つまりこういうことです。

さて、ここで考えてほしいのは現在の社会やこれからの社会で求められているのはどちらの考え方でしょうか?

誰が考えても大多数が同じ結論に至る考え方、

人によって異なる答えに対する、その人なりの答えにたどり着くための考え方

さぁ、ここまで来ると私が何を「教育」と呼んでいるのかの大まかな姿が見えてきたのではないでしょうか。


人生100年時代などと言われるこの時代は、将来のことは予測不可能な時代VUCA時代とも表現されたりします。

日本でこれまで長らく教育と信じ込まれてきたもの、「学習」はこの考え方さえしていれば正しいという結論(答え)をひたすら求めてきました。

しかし実際にはどうでしょうか?

親が言う事、学校の先生が言う事、上司が言う事、政治家や大臣・官僚が言う事に従って生きてきたとしてあなたは幸せになりましたか?日本は幸せな国になりましたか?

このまま今までと同じことをもう30年、更に繰り返しますか?


経済的な豊かさは大切です。資本主義社会で生きている我々はお金がなければ今日住む場所も今日食べる食事も得ることが出来ません。

しかし経済的な豊かさばかりを追い求めた結果、その人ひとりひとりにとって違う人生に対する価値観(人生観)まで他人と同じであることに安心感や幸福感を感じるようになっていませんか?

同質性を好むのは自分という個性を認めていない、受け入れていないという自己否定・自虐志向の面を表しています。

もしあなたが本当に同質性を好むのであれば海を渡って社会主義国で生活をした方があなたにとっては幸せではないでしょうか。

一人一人にとって答えの違う自分の人生観を実現するために、どんなプロセスを組み合わせてそこに至るのか。

これはこれからの時代、とても重要なことではないでしょうか。

しかし結論ありき、答えありきを求める現代の日本人の考え方は易きに流され、誰かが与えてくれる考え方に従って自分の生き方や資産運用の在り方まで任せてしまっています。

YouTuberがドヤ顔で語っているインデックス運用や保険不要論などはその中でも突出したミスリードです。

我々が小中高などで長年かけてきた「教育」と信じて疑わなかったもの、それがもし間違っていたとしたらあなたはどうしますか?

決まった考え方と結論の導き方を教えてくれること、これを「学習」と呼びます。

だから教育系YouTuberなどと呼ばれているものに真の教育などありません。

(あとリベラルアーツのことをリベラとか呼ぶのもよろしくない)

あれは興味付け、ご飯で言えばふりかけ程度のものです。

間違ってもあれが正しいなどと鵜呑みにしてはいけません。

自分で考えるのです。

自分にとって本当に人生で大切にしたい事は何なのか。

そこから逃げて、自分にとって都合がよいことばかりに耳を傾けているといつの間にか自分の人生のはずなのに他人のための人生を生きることになります。


私はファイナンシャル・アドバイザー(FA)と最近は自分のことを呼ぶようにしています。

ファイナンシャル・プランナー(FP)と便宜上呼ぶこともありますが、本当ならFPという呼称は使いたくありません。

何故ならFPというのは今や日本FP協会という利権の温床だからです(涙)

もっと言いましょう。

金融庁や文科省を始めとした天下り先の一つです(絶望)

FPが悪い職業や悪い資格だとは思いません。

しかし一般人が学ぶのにはどうだろうかという疑問は常について回ります。

FP1級やCFPまで仮に取得しても机上の空論ばかりで、理論・理屈ばかりの頭でっかちになり、自分にとって本当に適切な金融商品やサービスが選べるかと言えば絶対に選べないからです。

世の中の恐らく大部分の人(99%以上)は私のこの教育観に対して反論や不快感を示すでしょう。

しかしそんな方にこそ是非考えてほしいのです。

日本が何故、30年以上にもわたってこんな状態にあり続けているのかを。

日本から何故、GAFAのような企業が誕生していないのかを。



日本では4月1日を新しい年度として、学校や職場でも新しい環境に身を置かれる方がいらっしゃるでしょう。

いわば4月1日とは年度における元旦と言うことができます。

元旦と言えば「一年の計は元旦にあり」という言葉があります。

これには様々な前後の言葉が付けられて語られることがあります。

どれが正しいではありませんが、私はこの一説が個人的に好きです。

一日の計は朝にあり
一年の計は元旦にあり
十年の計は樹を植えるにあり
百年の計は子を教えるにあり

「教育」は国家百年の計です。

一朝一夕にはこの日本に根付いてしまった教育観は容易には払しょくするのは難しいでしょう。

しかし一人一人がこれに真剣に取り組むのであれば、それは私たちの生きている時代の最後くらいには今よりも多少状況が変わるかもしれません。

一人一人の教育に対する危機感と意識が大切なのです。

教育は黙っていれば与えられるものではありません。

自らの頭で考えて、取りに行かなければ埋もれて、そして大きな声の人たちの意見に流されて行ってしまうのです。

私の大切な人が、かつて私に言ってくれた言葉があります。
今日の私の根幹を成している大切な言葉です。
彼女は今も私の中で生きて、そしてあの日のままで私に語りかけてきます。

考えよう。
考えてわからなければもっと考えよう。

わかるようになるまで考えよう。

考え続けよう。

考えることは生きていることの何よりの証拠なのだから。

Thinking is a symbol of your life.

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