見出し画像

シューマンの歌曲〈君は花のように〉の不思議

2023年が明けました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年は音楽業界全般でリアルのコンサート活動が活発になり、嬉しい一年でした。「3年ぶりに開催!」という言葉を何度となく耳にしましたが、生の舞台エネルギーを多く吸収できたのは幸せなことです。私自身も7月と12月にリーダーアーベントを無事開催することができ、準備に追われつつも歌うことに全力を傾けた一年を過ごしました。そんなわけで、この「とりのうた通信」、配信はかなりマイペースな緩さなのですが、今年は一層、音楽について発信していく大切さを感じていますので、今後ともどうかご愛顧のほど、よろしくお願いします…。
さて、新年初のテーマは、ずばり(またか!)シューマン。名曲中の名曲といえる歌曲〈君は花のように Du bist wie eine Blume〉についてです。以前より気に留めていた「楽譜」の問題に触れてみました。

私はシューマンの歌曲とは長い付き合いで、長年ペータース版の楽譜を愛用してきました。そもそも大学1年の時(当時は伴奏者として)、歌い手の方から頂いた楽譜でして、その後、音楽学の研究時代にも使い、やがて自ら歌手として歌うために同じ楽譜を使ってきました。もうボロボロになっていますが、本当に多くの想いが染み込んだ大切な楽譜です。そんな私ですが、昨年より新しい楽譜を使い始めることにしました。長年使い込んだ楽譜を変えるのは演奏者として勇気のいることでもあったのですが、色々考えての決断でした。

バッハやモーツァルト等に比べ、もともと「全集版」の刊行が遅れているシューベルト、シューマン等の世代の楽譜は、まだまだ更新中…といった局面にあります。シューマンの楽譜については、今まさにドイツで新全集版(ショット社)の刊行が途上にあります。リートの全作品が出そろうまでにはまだ時間がかかるでしょう。ただ、新全集の刊行にやや先行する形で、最新の研究成果を反映した実用版として、ヘンレ社、およびベーレンライター社からシューマンのリートの原典版シリーズが出始めています。私が昨年から使い始めたのは、ヘンレ版。シューマン研究の第一人者で新全集版の編纂にも関わっておられる小澤和子氏が校訂を担当されているシリーズです。この版を用いて私は、昨年12月《ミルテの花》Op.25の抜粋を歌いました。

【補足】シューマン作品の楽譜全集は、作曲者の死後、19世紀末にクララ・シューマンとブラームスが校訂し、ブライトコプフ・ ウント・ ヘルテル社より刊行されたものが最初(1879-1894、旧全集)。やや遅れて20世紀初頭には、ペータース社から実用版としてシューマン歌曲集が刊行され(Max Friedlaender編)、これが20世紀を通じて広く流布することになります。ペータース版は、作曲者が書いたオリジナルの調(シューマンの場合は高声用がオリジナル)だけでなく、移調された中声用や低声用の楽譜が出ていることで、幅広い声種の歌手たちがリートを歌いやすくなった…、レッスンの現場で大変重宝される楽譜となったわけです。

そもそも原典版(自筆譜や初版楽譜など、作曲者の意図がくみとれる、できるだけ信憑性の高い史料に基づき校訂された出版譜)を読むにあたっては、楽譜に補足された様々な情報を併せて読むことが、かなり有益になります。いわゆる「校訂報告 Kritischer Bericht」の類です(ヘンレでは「序文」や「所見 Bemerkungen」の形で付いています)。校訂者が基にしている複数の史料に差異がある場合(例えば、曲のある個所で自筆譜ではこの音だが、初版楽譜では別の音になっている…など)、校訂者はどちらかを本採用して、採用しなかったバージョンについては、校訂報告等で「〇〇の譜面ではこうなっている」と提示するわけです。つまりは、基にしている史料データをなるべく詳細に提示して、演奏者に一緒に考えさせる姿勢をとっています。…というのも、楽譜というのは校訂者によって恣意的に作られてしまう(悪気はないにせよ…)危険性をはらむものでもあるから。だから今の校訂者は、「私はこちらがたぶん作者の意図だと思うけど、こうなってるバージョンもあるから、いちおう知らせておくよ、あなたの判断に任せるよ」と、読み手に投げかけてくる。このような楽譜を読むのは演奏家にとっても単純作業ではなく、時間も取られます。作曲家の意図を探る大事な作業とはいえ、正直なところ、人によっては敬遠したくなるだろうなあ…という気持ちもわからなくはありません…。

さて、ともかく今回の《ミルテの花》読み直しで、とても考えさせられる一例が、この第24曲〈君は花のように Du bist wie eine Blume〉に端的に表れているのです。これが特に有名な曲だから、歌われる機会も多いだろうから、なおさら大事なことのように思うのです。いまさらではありますが、シューマンが作曲したハイネの原詩をここに訳出してみましょう。

Du bist wie eine Blume,
So hold und schön und rein;
Ich schau dich an,und Wehmut
Schleicht mir ins Herz hinein.

Mir ist,als ob ich die Hände
Aufs Haupt dir legen sollt,
Betend,dass Gott dich erhalte
So rein und schön und hold.

君は花のように
やさしく美しく清らかだ
君を見つめていると 憂鬱な気分が
僕の心に忍び込んでくる

僕は あたかもこの手を
君の頭上にのせて祈りたい気持ちだ
どうか神様が君をいつまでも
清らかに美しくやさしく保って下さるよう

この詩の解釈については今はともかく脇において、ここではひとつハイネの言葉づかいにご注目を。この詩文の2行目「So hold und schön und rein」は、詩の末尾にもう一度出てくるときは「So rein und schön und hold」となっています。hold やさしい、schön 美しい、rein 清らか、という三つの形容詞の順番を、ハイネはさりげなく変えています。これがミソ。これは(各節の2行目と4行目で)脚韻を合わせるための措置です。多くの方は、この語順の違いにほとんど気づかないのではないでしょうか。この詩はシューマン歌曲の名曲として数々の往年の歌手の録音を通して、まったく自然に受け止められてきたと思います。まさにこのハイネの詩句どおり、ずっと歌われてきたのですから。

さて、小澤和子氏の報告によれば、シューマンは当初この〈Du bist wie eine Blume〉を1840年の1月23日、ライプツィヒを旅発つメゾソプラノ歌手 Elisa Meerti に、別れに際し贈っている(①)。その1か月後 (2月24日)、それを手直しした譜面を、当時ベルリンにいた婚約者クララに送った、「僕のクララに Meiner Klara 」と献辞をつけて(②)。最終的に同年9月12日の結婚に向け、花嫁への贈り物としてまとめた歌曲集《ミルテの花》第24曲に収め、キストナー社から初版譜を出した(③)。つまり、この曲には楽譜資料として3段階あって、ヘンレ版で底本としているのは③初版譜です…シューマンが天塩にかけて完成させた決定稿ですから。ただ、①と②の楽譜も、付録として巻末に掲載されています。

ここからいろんなことが新たにわかります。この曲がミルテの曲集の中でも最も早い時期に着手されていたということ(他のミルテの曲の多くは1840年2月の作)。それから、最初クララではなく別の人にプレゼントしている…というのは、ロマンチストなシューマンファンからすればちょっと「えっ」という感じかもしれませんね。ただ、この最初の楽譜は特に最後2行の「Betend~」からの旋律が、最終バージョンとは大きく異なり、いかにもメゾソプラノの声を意識して書かれているように感じられます(半音階進行で下降する、少し物憂げな旋律です)し、それに続くピアノ後奏も異なる趣です。それが1か月後、クララに贈ることを意識し始めただろう第2段階になって、今知られている旋律の音楽になります。この名曲が、このように徐々に形作られていったのか…と知るのは、シューマンという人間が見えてくる面白さや、作曲家の仕事の裏側を見る楽しさが確かにあります。

そして…ここからが肝心なのですが。例の、ハイネが技を見せた「So hold und schön und rein」のくだり、ここでシューマンは興味深いことをしています。シューマンが所有していた詩の写しは確かにハイネの語順のとおりなのだそうですが、譜面では最初の①の楽譜で「So schön, so hold und rein」(3~5小節目)と書かれている。つまりハイネの原文を微妙に変えてしまっており、②の楽譜では「So schön, so rein und hold」とまた語順を変え、それが③初版楽譜にも引き継がれる。最後の行に出てくる「So rein und schön und hold」(16~17小節目)については、もっと複雑な変化をたどるのですが(詳細はここでは省略)、結局のところ③初版譜では「So schön, so rein und hold」(つまり2行目で出てくるときと同じ語順)という、ハイネとは異なる決定をしているのです。結果として、初版譜を底本とする今回のヘンレ版で(そして追って2021年に刊行された新全集版で)採用しているのは、2行目も最終行も「So schön, so rein und hold」と歌わせる形となっています。これは…つまり従来(20世紀以降)、長らく歌われ聴かれてきたこの曲の歌詞の形とは異なるのです!

作曲家が歌曲を作る際に、詩人の原詩とは言葉づかいを変えることは、ケースとしては珍しくはありません。作曲上の都合で意図的に…ということもあるし、まれに作曲者の単なる思い違いということもあります。シューマンの場合も両方あるようで、例えば同じミルテの曲集の中の〈くるみの木〉で譜面に残る「 blättrig die Blätter aus」は、小澤氏はシューマンの単純ミスとして、「blättrig die Äste aus」を採用しています。(これについてはペータース版でも提示されていましたから、フィッシャー=ディースカウをはじめ、多くの歌手がÄste で歌っていますね。)それでは、この「So schön, so rein und hold」はどう捉えたらよいのでしょうか。

これは私たち現代の演奏家、特に歌い手に投げかけられた問いのようにも思います。ただ、問題なのはそれがシューマンの単純ミス(思い込み?)なのかどうか云々というよりも、むしろシューマンが最終的にまとめあげた当該箇所の音楽は「So schön, so rein und hold」という言葉使いに対してのものだった…という事実なのではないでしょうか。この語順について上述のとおり細かな書き換えを繰り返していることを併せてみても、シューマン自身が何か特別なこだわりを持っていたようにも感じられます。そしてこの曲の最終的な献呈を受けたクララも、この歌詞でずっと歌って受け止めてきた…、それはシューマンの死後、クララとブラームスが編纂したシューマン全集(旧全集)でも、この「So schön, so rein und hold」が採用されていることからもわかります。シューマン夫妻にとっては、ここはこの語感で歌う形だったのです。それが、その後(ペータース版が最初なのでしょうか)、原作者ハイネの語順のとおりに直された形で出版された。おそらくシューマンのうっかりミスとして、あるいはハイネの原詩の形のほうが美しい…と解釈されてでしょうか(それも一理あるでしょう、詩人ハイネの側に立てば…)。そして、そのペータースの楽譜を使った演奏録音の普及により、これが20世紀の間に定着してしまったのです。シューマン自身もクララも、おそらくこの形では歌っても聴いてもいなかったでしょうに。

多くの人にとっては、そんな歌詞の些細な違いなんて…と思われるくらい、マニアックなことかもしれません。でも、この件は、私にとってクラシック作品における演奏者と作曲者との距離感(時間の隔たり)を強く再認識させられました。楽譜が作られる過程(特に出版される過程)で起こる様々なことが、作品の元の形を変えてしまうことがある。作品というものは、確かに作曲者の手を離れたら、独り歩きしてしまうものかもしれません。それでも音楽の根幹は残るものかもしれません。だけれど、やはり作曲者が想いを込めたもの、とりわけこの〈Du bist wie eine Blume〉のような、プライベートな要素のつよい作品が、作曲者の意図とは異なる形で歌われていてよいのだろうか…と、つくづく考えさせられました。

特にこれを考えるようになったのは、私が近年、鍵盤楽器奏者 武久源造氏の歌曲作品を歌わせて頂くようになってからの経験も影響していると思います。歌曲の一音一音に作曲家が込めたもの…に、今まで以上に畏怖を感じるようになったのです。作曲者自身による伴奏で歌う場合、歌手が意に反した歌い方をすれば、すぐ注意が飛んできます。作品には、やはりそれを産んだ作曲家の意図がある。作曲者には、なぜここをこういう音で書いたのか…という根拠がある。それを読み解くのが演奏者の大事な務めですが、ここで作曲者の心との対話が常に必要になります。だから、作曲者と演奏者との時間的な隔たりがあればあるほど、演奏者は畏怖の気持ちを忘れずに、楽譜に対して能動的な姿勢を持って、様々な歴史的側面も含め、考えていくべきなのではないか…と思うのです。でなければ、それはもはや簡単に、作曲者〇〇氏の音楽ではなくなってしまうかもしれないのだから。

その反面、矛盾するようなことかもしれませんが、こうも思いました。作曲者というものは、楽譜が出版されるまでの間は、試行錯誤して作品の形を変え続けるものでもある。いや一旦出版されても改訂を加える作者もいる。そのような作曲者にとって、生きている間、作品は形を変え続ける「やわらかいもの」なのだ。だから、音楽作品とはもしかしたら決定稿などないものなのかもしれない。作曲者は自分の意図とは異なる演奏を聴いて、「それもよし」と頷くものかもしれない。これも、武久源造氏との共演で経験したことですが、武久氏はご自身作曲の歌曲に関し、別のピアニストの方に弾いてもらう際には、楽譜を念入りに書き下されますが、ご本人が弾く場合、常に即興的な余地を残していて、本番ですらリハーサルとも違う楽想を展開されたりします。歌い手としてはドキドキするのですが、「作曲者としては、毎回、より良いものを生み出そうとしているんだ」という趣旨のご発言を頂いたことがあります。だから結果的に、作品には複数のバージョンが生まれます。これに似たことは多くの作曲家に当てはまると思います。シューベルトの有名な歌曲〈鱒 Die Forelle〉には5つものバージョンがありますが、決して珍しいことではないでしょう。実際はもっと数があったかもしれない。ある意味、必然的な作曲家の試行錯誤の跡なのです。

演奏する際にこのような異なる稿を検討して、通常演奏されているものとは違うバージョンを採用する…ということ自体は、オーケストラ作品や宗教曲など比較的大きな編成の作品では時々ありますね。ある意味プロダクション全体で進めるのですから、やりやすいものかもしれません。ただ、ドイツリートのようなデュオだったりソロの作品で、特に往年の名演奏であまりにも有名になってしまったものを、あえて変えて演奏するというのは、演奏者個人にとって非常に勇気のいることかもしれません。聴き手が耳慣れていないがために、下手すると演奏者が間違った歌詞で(音で)演奏していると思われかねない…という現実問題もあるでしょう。長年の慣習、歴史を変えるということは難しいものです。

だから、聴き手の方にお願いします。ある作品のお気に入りの録音があるにしても、耳にタコができるくらい聴きすぎていたとしても、それが=作品だとは思わないでほしい。実演を聴いて、演奏者が歌詞を間違った、ミスタッチをした…等々と気にする前に、ちょっと待って考えてみてほしい。もしかしたら演奏者が出したその音が、作品の実像に、より近いものなのかもしれないのだから。21世紀には、これからさらに多くの校訂版が出て、従来の(=20世紀の)耳の常識を超えた演奏が次々出てくるかもしれないのです。…こう書くのも、実際、私自身に経験があったため。あるヨーロッパの実力歌手の演奏を聴いていて、あれ?音、間違った?っと不審に思ったことがあり、後で調べたら新全集では音がペータース版とは異なっていたのでした(シューベルトの例です。)こういったことが、これからも出てくるだろうなと思います。あまりに有名な曲の場合は、演奏者の側も誤解をさけるために、事前にプログラム等で版の違いについて一言触れておくなどの工夫が必要かもしれませんね。

本題に戻して、シューマンの例の「So schön, so rein und hold」について。私は自分で歌ってみて、確かに最初は慣れない違和感を持ちましたが、歌い込んでみるとこのほうがシューマンの意図を感じるような気がしました。あくまで私見ですが、声楽的にもこのほうが歌いやすいように思いますし、何よりもこのフレーズの中央にくる「rein」の語に、気持ちが込められているように感じました(ハイネの原詩の形では、中央にくるのは「schön」)。特に、歌の最後でのフレーズで「rein」に高く長い音が充てられているので、これをシューマンは大事にしたかったのかな…と。シューマンがクララに寄せた想いとして、私はそう解釈しています。「rein」は清らか、純潔の意味です。ちなみにシューマンが歌曲集のタイトルにつけた「Myrte ミルテの花」も、ヨーロッパでは結婚式の花嫁の飾りに使われ、純潔の象徴です。

この曲はなんとなく男性が女性に歌ってあげる代表曲…のようなイメージを持たれていますが、シューマン自身はクララに歌ってほしくて送ったのです。ピアニストのクララは、アマチュアとはいえど声楽の心得がありましたから。この歌曲の譜面(上記の②)をさっそくクララに送ったとき、シューマンは手紙に以下の言葉を添えています。(筆者訳)

慰めとして君に小さな歌曲も同封するよ。君自身に向け、そっと素朴に歌っておくれ。君がそうであるままに。

想いの凝縮されたすばらしい曲ですから、ぜひ性差にこだわらず多くの歌手の方に歌っていただきたいです。そしてそのときは、ここで述べた歌詞の問題を、(私の解釈はあくまで参考意見のひとつとして)どうか演奏者ひとりひとりが自分自身で考えて、選択して、演奏してほしいと思います。

【補足】シューマンの新全集(ショット社)ですでに刊行済みの歌曲作品は、《リーダークライス》Op.39(アイヒェンドルフ)、《ケルナー歌曲集》Op.35、《ヴィルヘルム・マイスターによる歌曲集》Op.98aほかの後期歌曲、《スペインの歌芝居》Op.74ほかの重唱歌曲集などに限られる。音楽大学図書館等に(都内であれば東京文化会館音楽資料室にも)所蔵されているので、閲覧可能。最新では《リーダークライス》Op.24(ハイネ)、《ミルテの花》Op.25等も2021年に刊行され、2023年に入って主要な音楽大学図書館に入り始めている。筆者は東京文化会館音楽資料室で確認したが、本記事で触れた〈君は花のように〉の校訂方針は基本、新全集版とヘンレ版では変わらず、当該箇所の歌詞や複数の稿の存在については、新全集版でも同じく確認できる。

参考までに、以下のサイトを挙げておきます。

ヘンレ社のシューマン歌曲のサイト(独・英・仏ほか、日本語にも対応)

ショット社のシューマン新全集のサイト(独・英・仏語)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?