「意識」について

我々の持つと思われる「意識」とはいったいとどのつまりどういったものなのであろうか。
「意識」がなければ全て何も存在しない。
日常我々に「意識」があることを垣間見させる様々な「様相」がある。
たとえば、瞑想中においては、あるいはその後に、我々には一つではない様々な「意識」があることに気づかされることだろう。
また、ある偶然とは思えない突然の事象との遭遇。
「意識」はそのとき『意識』=「メタ認知」され、普段の意識が日常生活の浅いところにあったことを逆認識させたりする。
「意識」は「記憶」を内包している。そして、「記憶」は「認識」である。
熟睡中においては「意識」はない。
普段意識しないが、意識しようとすればそこに確実にあることがわかるものの代表は「呼吸」である。
「呼吸」は「意識」に最も近い。
それは、意識しなくとも継続し、逆に意識しようと思えば常に意識できる。
そう言った純粋意識的な体験は、実は日々我々が意識可能な「対象」である。
我々はただ生きているのではない。
生きていることを意識しようと思えば意識可能な境遇に生きている。
そしてその「境遇」は「環境」なしには存在しない。
そもそも「神」は、「意識」しなければ存在しない。
「神」とは「意識」を超越したところにあるものを意識しようとした結果の表象である。
「意識」についてボケること、あるいは自分に「意識」があることを忘却する者は、飽きることなく同一円周上を巡回していることを意識することがない、「法則」と「無縁」である者である。
では、「意識」を意識すると何が起こるか?
それは各人の意志と実践と体験の結果になる。
美しいものを「美しい」と認識する以前に、そこに「意識」がある。
面白いものを「面白い」と思う「意識」がそこにある。
そして、それらを味わいたいと願う「意識」がある。
「未来人」とはどのような意識を持つものか。

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