ヒマな時に思いつく力について

諸処色々なことをこなしてやや疲れて余暇時間に至った時、多くの人はそこで自分から何かをしようとは思わないものだと思う。
必然的に、そこで手を染めるものは他者が作ってくれたものになる。
そうではない、何かをしようとする人は、おおよそあらかじめ何をするかを決めている人たちであり、そういった人たちは、そのことのためゆえに「労働」があると認識しているはずである。
労働で疲れたから遊ぶのではない。自らの「遊び」の時間が来るのを待つために労働に耐えるのである。
人生における、お金と暇ではどちらに価値があるのかは、ソクラテス、キリスト、ブッダ、孔子を見れば、圧倒的に後者の方が大きいことは明らか。彼らは皆、自らの活動の時間のために必要外の余計な労働をしないようにした人たちであると抽象化できる。
とした場合、暇な時に何をするのかを思いつく力、あるいは何かを感じ取って思わず行動してしまう力こそが、真の「豊かさ?」を与えることになるということになるのか。
お金が与える快感には限界がある。
世間的「名声」も関係ない。
それは真の「豊かさ」とは異なる。
そうではなくて、その結果、自分のしたいことを見つけ、それを余暇時間に行うことで、新たなる体験を積み重ねるのでなければ、たとえお金を得てもその意味はない。
人は、何らかの自己怠惰を認識したり、他者からそれを指摘されたりすることを嫌う。
しかしそれは、明らかに「愚かな」なことなのである。
教育の根源―スカラー暇な時にするべきことは、とどのつまり、自己健康=カラダを鍛えることと、他者対応アタマを鍛えることである。
言語力と論理思考、そして「抽象化」と一般他者の状況認識―これが今日の資本主義の根底にある「精神」である。つまり、「資本主義」は自ら着想・対処できない「受け身」の人たちを対象にその「活動」を行っていることになる。
何も今さら「資本主義」などとは語るまい。古代より人間の歴史で、たとえそれがどんなことであろうとも、少なくとも自ら自分のしたいことを思いついて、それを実践したものが「勝者」であることは明らかである。
何かを思いつくこと。
環境からの刺激を、自分内部の好奇心で受け止め、その深い探索に実践行動すること。
何かに連続的に試行錯誤すること。
限界状況で暗中模索の体験をすること。
「境涯」に立って、見えてくる「光」。
自分はかくあり、住している。
そして、次の行動は自分に選択権がある。
人生はそのためにある。
そしてこれは、万民に開かれた「窓」である。
この「体験」の機会を与えることを抑制する「教育」は、要素部分的に矛盾化せざるを得ない。
自然体験と能力開発。
このことに気づかずに「社会適応」を優先して行動し続けた者は、必然的に大きな「後悔」を迎える日に遭遇することだろう。
未来方の教育環境の設定は、そのようなことの「認識」を前提にしなければ話にならないと思う。
昨日、御殿山新事務所で「セッション」を開始した。なかなか良い感触である。
未来型にアタマがよくなりたい生徒諸君ここに集まれ!

17日に『日本の教育、ここがヘンタイ』(ワニプラス)刊行。

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