中国人子女参加のリベラルアーツ

13日のリベラルアーツ初級は驚くべき展開になった。
『老子』を読んでいるのだが、そこに中国人ハーフ生徒とその中国人の母親さんが新規に参加した。
非常に知的な方で、『老子』は大学で読んだことがあると言う。娘さんは中高一貫校の1年生。
これで女子も二人になった。女子の意見と反応は非常に大切である。
さらにインド出身の参加者があれば、あるいはイスラム圏の参加者があればもっとと面白い。
みんなで話し合いたい。隣国に戦争を仕掛けるとはどういうことなのかを。
中国語を了解する人を前にして、中国文献の会読するとは、中国語を知らない自分にとってはお恥ずかしい限りであるが、このリベラルアーツにとって中華思想はその対象の「一部」であると認識実践することを「盾」にして、『老子』を会読する。我々は「その他」も会読しているのだ。
しかし、『老子』。そこにあるのは、やや無意味にも思える論理的飛躍と無理やりな例えの連続。
40章を超えて、何を言いたいのか、繰り返し同様の思想が述べられる。
「老子」は本当に老人らしい。
そこにあるのは経験的美徳の表明。
無為自然―何もしようとしないことが良い。
あまりの論理的な混乱に、かえって言語化できぬことをしようとするとこういう堂々巡りになるのではないのかとヴィトゲンシュタインのことを思い浮かべたりする。
我々は知りたい。「先達者」たる未来的光景を正確に予兆する者が如何なる過去思想をその判断の根拠とするのか。
その「根拠」になるのはどういったことなのか。
その手がかりとして、『古典』の会読がある。
多くの大人は、人間として正しきことをどのように決定して判断踏襲しようとしたのか。
そしてそれによって、子どもたちの本格的な日本語記述における運用・了解能力を高めていくこと。
どの大学も欲しがる人材を育てること。
岩波文庫にある書物の翻訳解説者は、ほとんどが「旧制高校」の出身者たちである。
旧制5年制中学の上にあった、その中からより選択されたものが進んだ「旧制高校」。
第二次大戦後も、政財界を通じてこの国のリーダーを輩出してきた「場」が、いったい何を伝えてきたのか。
そこにあったのは、あらゆる世界思想の抽象化・客観化であったのではないか。
それなしには「世界」を相手にする「立場」をとることはできない。
キリスト教もユダヤ教も、ギリシア思想も、インド古代思想も中国古代思想も、そしてイスラム思想も、全てこだわりなく客観理解することがこれからの「リーダー」に欠かせない。
リベラルアーツ初級次回は、5月11日で『老子』を終了する。ここで意外と既読者が少ないので『論語』の会読を開始する。
20日の上級は、『エミール』にできるだけ結論を得た上で「終了」し、併せてホーメロス『イーリアス』を読む予定。
私自身は、現在クセノフォン『アナバシス』(岩波文庫)を読んで、古代ギリシアの戦闘の実際を知ることに「確認」の喜びを得ている。
やはり古代ギリシア人の総体は、自己利益と略奪を目的に戦っているのだ。
この繰り返しの後に、「成熟」したアテナイでソクラテスが、
「財産と社会的地位獲得を目的として人生を送ってはならない。そうではなくて、自己の魂を最大限向上追求することが正しいのだ」という言説が生まれることになる。
スパルタとの戦いに敗れたアテネは衰退せざるを得ない道を辿る。
しかし、その最大限に発達した「文化」はしっかりと残ったのである。
リベラルアーツをしていると、人間のするべきは最大限の人間的向上の実践であることがナチュラルに了解される。
ではどう生きるか?
それは各人が決定するべきことがらであるが、「無為自然」が大切、何もしないことに美徳があると言われると、どうして良いのかわからなくなる。
だが、我々には仏教的「知恵」もある。

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