なんちゃって

私はこれまで自分をやや「過激なところもある人間」だと思ってきたが、(残念ながら、)必ずしもそうではないことを自覚せざるを得ない時代に突入していると感じている。
個人個人の勝手な「直感判断」の集積が社会的「第一義」であり、しかもそれはいつでも常に「修正可能」な「ファジー」な状態にあると言うのも「前提」・「常識」である。
なんらかの「流れ」の中で、ナチュラルに今の自分に最適な方向性を選択する。
それはひょっとすると、これまで既成のアタマのハタラキとは異なる種類のものなのかもしれない。
しかし、だからこそ、「正しい可能性」がある。
「敗戦」=「占領下」されたために、人々を「鈍く」することを、(暗黙のうちに)「目的化」にする教育、あるいは「政策」が約40年、いや70年以上続いている世の中で、なをもそのことに気がつくことができない人を生み出そうとする、いや「放置」する教育が国家によってなされ続けようとしている。これはもう、衰退しかけた本国アメリカが望むことでもない。
「着想」より「感受」。
多くの人は、後者を甘受する。
自らも信じた結果、多くの人の命を奪ったことになる戦前の「天皇制」に反発を覚える人たちがいるのはよくわかる。
無意味なことで同族親族を殺された「恨み」は、「靖国神社」程度ではなかなか「滅却」されるものではない。また逆に、そのことを感じることができない人は、「人間ではない」とも言えよう。
しかし、その「段階」でまた新たに別の考えや思想に「洗脳」されている自己に自覚的であろうとすることはなかなか容易きことではない。
深く、クリアーに、自分の「直感」→「判断」・「決断」に従って生きることは「資質」のなせる技なのか。
それとも各個人の「意志」によるものなのか。
「判断」がもたらす次のものが「行動」・「実践」であることは言うまでもない。
「未来社会」に生きるとはどう言うことか、あらゆる教育者は、この答えを得るように自問するべきである。

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