若い時に学ばないと後悔することについて

―若い時に学ばないと後悔する
この言葉を噛み締めたことがない人はいないだろう。
そして、人は、親は、このことゆえに、子どもに教育を与えようとする。
しかし、これは一般的に「後悔する」が「損する」に置き換えられていることが多い。
それは意味があるかないかを考えるよりも、損か得かを考える方が容易いからであろう。

大人になってから、あらかじめ身につけておけばよかったと思う能力は少なくない。
誰でもそれは両手の数に余ることだろう。
それは諸処の細かい作法や技術も含めるとさらに多くなる。
私たちは後悔する。学ぶべき時に学ばなかったことを。

では、その学ぶべきことを抽象化して、その核心を絞ると、それは多くの人が自覚しないかもしれないが、
―アタマをよくすること
になると言えまいか。
自分が不満足なのは、どこかアタマが悪いところがあるからであり、それを若いうちに解決しないままにやり過ごしたことが「後悔」の念を生むのであり、その結果、社会生活で「損した」という感情が生まれるのである。
しかし、大人になっても、現時点の自分のどういうところがアタマ悪いからそれを意識的に改善しようとする人は少数だと思う。

子どもは、自分が大人ができることに至らぬことを見て、大人に敬意を持ち、大人がするようにできるようにしようとする。真似しようとする。
だが、まだこの時点では、それがアタマが良くなろうとすることであるとは自覚できない。そこには子どもなりの「自由」もある。
子どもが、識字、計算といった直接的ではなく間接的に他のことを学ぶことの「土台」になることを学び始める時、それは単なる「真似」では済まなくなる。だから子どもはその理由を尋ねてくる。
―なぜこのような勉強をする必要があるのか?と。
このとき親は、「将来のため、世の中で生きていくため」とか言うのかもしれないが、これはまだその世の中を知らぬ子どもにはまず通じない。同様に、「この世の中では学歴が必要」も通じない。それは「学歴」の何たるかがわからないからである。
では、「アタマを良くするため」と言うと、一応この言葉に子どもは納得するが、その本当に意味するところはわからない。だから、子どもが苦痛であると感じることをさせるにはふつうは強制するしかない。

人のアタマを良くするのは知識ではない。
体験である。
単純作業の繰り返しではない。
体験的な事柄においてのみ、人は知能や能力を向上させる。
たとえ机上の学習でも、それが自己の好奇心に基づいた追体験的なものになっている場合、知能は向上しやすい。
すると、子どもに学を与える前に、追体験的な学習を多くする機会を与え、その習慣の芽を身に付けさせておくことが正しいことになる。
その子の好きな、興味がある事柄について、それを深める体験や、そしてそのことによって偶然新しく目が開く出逢いや遭遇の体験の可能性が高くなることを願うこと。
こうした教育環境設定下で、子どもに遊び感覚で学を与えること、そしてそれがオモロイためについ連続的にそして深く取り組むように導くこと、仕向けること、見守ること。そこには、創造力や表現力も加わる。
そのように育てられた子どもが、いつの世も求められる人材になる。

後悔しないことーそれは自己の好奇心に基づく追体験ではないことに多くの時間を割いてしまわないようにすること。
同時に、同じことを繰り返しがちの自分に自覚的になること。もっと広く外の世界を覗こうとすること。
そうした人は、自分の学んだことに後悔せず、そしてそれを与えた親や周囲の環境に感謝する幸福な人間になることだろう。
我々は再度確認するべきである。そのことの選択は「自由」なのである。

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