『種』を配る

筆者の「個人的プロデューサー」を担当する人物から、ドイツ製高性能マイクを手渡され、これからブログに書くような文章を音読してネットで流す手筈が整えられた。
それには予め、発信内容を文章化した方が良いという判断になって、それを実行してみると、これがいただけない。やはり、読むために書くのと、聴くために書くのでは何かが違う。「放送作家」などの経験はないから、これまで勝手に書いて勝手に語ってきたが、それを多くの人にわかりやすく伝わりやすいものにして提供しようとすると、改めて「初心」である自分を認識させられる。
私は大した人物ではないし、知っていることもごく限られた領域で、しかもその理解認識は浅い。限られている。
あるのは「直感力」であるが、それだけではどうすることもできない。
字を読みたくない、耳で聴きたい人向けの音読用には失敗したが、以下そのために書いて「ボツ」になった原稿を記載する。
これが読んでわかる読者の「笑い」につながれば幸いである。

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「種を配る」

皆さんは、もし自分が綺麗な花をつける植物を見つけ、それを育てて種がいっぱい取れたらどうしますか。
おそらく多くの人は、その種を親しい人に分けると思います。そして、自分が育てたのと同様に、美しい花が咲くのをその人にも楽しんで欲しいと願うと思います。

個人教授の仕事も長く続けているとそこに深いものが横たわることを知ります。
成績を上げる、得点を伸ばす。それには覚えるべきことを覚えさせ、そのための訓練をすれば解決されます。
志望校合格。それは志望校の出題傾向を解析し、合格最低点を取らすための指導を行えば解決されます。
成績を上げて、志望校に合格させるのだからそれで良いではないかと言うと、それが長く続けていると面白くなくなってきます。
ただ成績を上げるより、もっと良いことができないか。もっと子どものためになることを教えられないか。
と言ったわけで、中学高校進学後に伸びるような生徒を育てることを目的にすることになりました。
生徒を先に伸び代があるように育てる。
すると、どういうわけかそのように指導した生徒は受験に強いことがわかってきます。
よく考えてみれば、それはそうかもしれない。入試を行う学校が求めるのは、入学してから能力が伸びる可能性が高い子どものはずです。
これはどなたも簡単に想像できることだと思います。
入る前ではなくて入った後に伸びてもらわなければ仕方がない。
単に得点力が高いだけではなく、中へ入ってから伸びる子どもが欲しい。
これはよく考えてみれば当たり前のことです。
でもそうした子どもの能力に共通するものは何なのか。
そのことが問題になります。
そうこうしているうちに、いや長年さまざまな教育上の試行錯誤を繰り返していると、ある時、子どもが勉強できるということは、とどのつまり、日本語の了解能力が高いということに他ならないということがわかってきます。
日本語で説明して了解できるのなら、問題ない。
日本語のテキストを自分で読んで了解できるのであれば問題ない。
何だ勉強できる子の共通点は日本語でよく了解するということではないか。
日本語を聞いてそれが分かるかどうかが一才の「鍵」。
ではその日本語力を伸ばすにはどうしたら良いかというと、実践上、日本語古典の音読が最も良いことがわかってきます。
日本語古典の音読練習をした者は国語力の伸びが速い。そして受験に強い。
これは約50年の個人教育経験上争われぬ事実です。
古典を読むことは学問の土台なのです。
ではその日本語古典の中で、最も音読学習に適するもの、つまりは日本語能力を伸ばすものは何かと言うと、実践結果的にその代表は『徒然草』、『源氏物語』、『古今集』ということになり、さらにそのベースになっているものとして、『万葉集』、『古事記』があり、さらにその元がカタカムナであることがわかってきます。
カタカムナのウタヒは、一音一音切れている音節文字です。この音節文字を一音一音切って読むことから始めて、『古事記』→『万葉集』→『古今集』→『竹取物語』→『伊勢物語』→『枕草子』→『源氏物語』→『更級日記』→『大鏡』→『平家物語』→『方丈記』→『徒然草』→『高砂』→『日本永代蔵』→『奥の細道』→『東海道中膝栗毛』→『南総里見八犬伝』→『舞姫』→『草枕』→『にごりえ』・・・・と、主要古典中特によく音読されたと思われる冒頭部分などを現代に向かって音読すると、その訓練を受けた者は、日常言語が潤滑で表現豊かな者となり、読書に勤しみ文章を書く者になります。もちろんやろうと思えば、書いてあることを読んで理解できるのですから、勉強・成績もどんどん上がる。この延長線上で、論説文を聴いて理解し、必要なテキストを読むことができ、自分の考えを文章化できるようになると、AOで好きなところに進学できる時代になりました。とどのつまり、あらゆる教育機関が欲しがる人材になることになるわけです。
だが、これは誰でもできる。ただ日本語古典を一音一音切って読むだけ。
でもこれをやれば多くの子どもが賢くなれる。
自ら学んで自分で学力をつけられるようになる。
ですから、ね、個人教育を長く続けた者にとって、これを教え続けないわけにはいかないし、これを多くの人に伝え広めないわけにはいかないということになるわけです 。
まるで綺麗な花を咲かせる植物の種を配るように。

「以上」です。コメントをどうぞ。

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