奥多摩合宿素描―4


面白くなってきた。
奥多摩古民家合宿は「最高」である。
「まだ7時なの!?」
これは合宿に参加する生徒たちに共通する「驚きの声」である。
子どもたち的にすれば、もう結構それなりの時間集中学習したつもりなのに、「学校」と違って、まだ2時間ほどしか経っていないことは意外な驚きの認識である。そしてそこに、「カタカムナ」―その「潜象」の「カムナ」の自覚が起こる。いや、起こさせる。忘れていた「時間」を蘇らせる。そして、その後の昼食までの広漠な時間を自らの決定と「責任」で有意義に過ごさなければならないことが「課題」となる。この「課題」を解決することこそが個々の「能力」になるのである。この「認識」を得る機会はまたとなく重要であるが、それを「偶然」に任せるのであれば「教育」ではない。そしてさらにそのためには、「自然環境」の存在によって、「メディア」や「デバイス」に逃げる選択肢が「捨象」されてしまっていることが「前提」になる。
自分で想って自分で選んで自分で挑んで自分で賢くなるトレーニングをすることーそれがここで要求されている唯一のことである。
「直感」と「決断」と「実践」―その三者の連続の「追体験」をさせることこそが「教育」の目的であり、教育の淵源はこの「教育環境設定」にある。
ゆえに、奥多摩囲炉裏古民家合宿教育は最強最高の教育環境設定である。我々はこの「効果」が他に比較することが不可能なゆえにこの困難な教育活動を敢えてしている。つまり我々は、先駆的未来教育活動実験をしているつもりなのである。そしてそれはなんと呼ぶのか知らないが、すでに「最新カメラ」で自発的にしつこいほど撮影される「事態」でもある。何か良い状態や事件やアドバイスがあると感触されれば、すぐさまそこに調理・洗濯の手を休めて、編集作業を厭わない者のカメラ撮影が飛んでくることになる。
その「環境」は、蝉の声同様、完全に教育環境設定整備されており、そこでの「選択肢」を与えられたことに意識的になれない者は「愚人」であり「ガキ」である。しかし彼らも「これ」を経て、予想もつかないほどの「変身」をして、数年後にこの合宿にまた現れることになることが必然であるのはいささか内心愉快とも言える。
周りは自然、目の前は山、しかも「オマエさんには本当に感性があるのか?」と絶えず問いかけてくる、絶妙な感触の「珊瑚礁」、その下の谷は多摩川上流の渓流。しかも、最高に涼しい。明け方は寒いほどだ。
インストラクターが、禅寺・ヴィパッサナよろしく全食事を提供する。その傍ら午前はアドバイスレッスンを行い、昼食後は「河学習」に引き連れてゆく。
若いインストラクターの原と大沢は、朝食を出してその後片付けをし、その上ですぐに米を炊いて、「腹が減った」の言い訳を許さないためのおにぎりを量産する。午前には情け容赦ない大量の洗濯干しを行う。その上で昼食の準備を開始する。本当に本当に「ご苦労様」だが、これが後10日間以上続くことを想うといささか想像に絶する。厨房を扱う者には、「母親」同様の、「怒る権利」がある。この「ニュアンス」の解説は必要ないことだろう。
すでに二女の父親である前田は、彼ら二人のスタッフのおかげで、全ての生徒へのアドバイスと全体統括に余念なく活動する。
米はたくさんある。どれも寄付されたものだが皆滅茶美味しい。普段食べられない、美味いとわかっている「最高級米」ばかり。特別生産玄米もある。その他雑穀米にもこと欠かない。オーガニックな麻の実製品を差し入れた人もある。おにぎりはどんどん「蒸発」する。
昼食後に川へ行くことは「定番」になっている。これも体力と経験のある大沢と原の活躍あってのことだ。彼らがいなければ川遊びはできない。まあ当人たちが喜んで「趣味」の飛び込みを率先してやって見せているのであるから、「キミタチ暑い時にすることはこれしかない」と言うニュアンスかえって「直球」で伝わってありがたいが、しかしキミタチ、この「豪快」な川遊びは監視者なしにはできないのだよ。ともあれ、全員ライフジャケットにウォーターシューズ着用。
私は河原までは降りない。毎度上からこれを俯瞰するのみ。体が冷えれば彼らは勝手に流木を拾って来て焚き火を始める。ライターを忘れないところが「奥ゆかしい」。自然の中、「川遊び」に「焚き火」。「ストレス」は完全に発散される。そしてその状態で学習に集中する。
以下に参加者の観察の記述を試みる。これを同時で読む生徒はなんと思うことだろうか。それは前田庵主に任せよう。

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